市立小樽美術館 市立小樽美術館協力会

KANCHOの部屋

小樽1970-80年代の新風 鵜沼人士とともに

keiji-unuma[1] 2009年1月18日、みなと町小樽に生まれ育った油彩画家・鵜沼人士が52歳の若さで急逝した。ガンだったと聞く。道立札幌西高等学校の美術教師としての在職死だった。
  惜しまれたその死から早3年が過ぎ、彼と同世代で現在なお現役作家として活躍する小樽ゆかりの仲間たちの出品を願って、企画展 「小樽1970-80年代の新風 鵜沼人士とともに」(2月18日~5月13日)を実現することができた。同展に作品を寄せてくれた仲間は年長順に豊田満、末永正子、澤田範明、坂東宏哉、鵜沼人士、小林大、武石英孝、丸山知子、谷口明志、福原幸喜、そして現在は仏人と結婚してフランスにすむ実姉のマユミ・ウヌマ・リンク(鵜沼真弓)の11人で、丸山の1点を別 として、残る10人は各5点前後を出品した。 小樽、札幌、岩見沢など道央圏在住の北海道美術協会(道展)会員が大半を占める。
  彼らが画家の道に踏み出した1970-80年代は日本が高度経済成長を遂げ、安定した右肩上がりの時代に突入した時期。’72年には札幌 オリンピック冬季大会で、宮の森ジャンプ台で笠谷幸生選手ら3人の“日の丸飛行隊”に湧き、札幌地下鉄開通 、ダイエー、イトーヨーカ堂、 札幌パルコなど西武グループ、東急系大規模小売店の進出など、オイル・ショックを含め経済ニュースが新聞・テレビをにぎわした。この頃 20代だった彼らは次々とグループ展を立ち上げ、小樽美術界に久々の新しい波を巻き起こしたのである。
  好景気の時代背景が芸術文化の世界に活気をもたらす例は、日清・日露戦争を経て小樽経済が急成長を果 たした明治末期から大正、昭和初期に美術界でみると、花の都パリに遊学した長谷川昇、小寺健吉、工藤三郎の3人をはじめ、平澤貞通 、三浦鮮治、兼平英示、中村善策、国松登、 大月源二、鈴木伝ら有力な画家が登場、美術史に「小樽派」の表現が見られるほどの勢いを見せた。戦後の復興期にもこうした例をみられよう。
  鵜沼人士の画業と生涯をしのび、そしてその仲間たちの果実を楽しんでほしい。

終わりなき版への挑戦 没後一年 一原有徳 大版モノタイプ

ichi-k-top[1]
 小樽が生んだ「現代版画の鬼才」一原有徳が100歳の天寿を全うして昨年10月1日に逝去して1年が過ぎた。その画業を偲ぶ遺作の特別展「終わりなき版への挑戦~没後一年 一原有徳 大版モノタイプ」が10月22日から市立小樽 美術館の2階展示室で始まった。会期は2012年2月12日(日)までと異例のロングランである。同美術館のリニュ ーアル再整備に伴い3階に新装常設化された「一原有徳記念ホール」で今年4月から開催中の企画展「幻視者 一原有徳」 と合わせ、ケタはずれの創意と創造力に満ち溢れた「イチハラ・ワールド」は、来館者にとって十分楽しんでもらえる ものと期待している。
 1点刷りのモノタイプ作品に的を絞った今回の特別展には石版、ステンレス版、アルミニウム版から紙に刷り上げた大小 の作品のほか、ステンレス版にアセチレンのバーナーで焼き付けた超大作など、合わせて44点を展示した。同美術館の 所蔵作品に加え、床面や壁面を覆い尽くすような超大作を所蔵する(株)アートフロントギャラリー(東京)の協力を得て 12点を借り受けた。中でも「SANYO]のタイトルがつくA~Eのシリーズ6点は、194.0×530.0cmをはじめ、これ を超えるアルミニウム版モノタイプの大作で目を奪う迫力を、そして静寂を感じさせる。
 「COMZON」のタイトルがつくモノタイプは床から天井まで直径50cmの円柱で高さは360cm。やはり同タイトルのステ ンレス版のアセチレンガスバーナー焼き抜きの作品は360cm四方の大作が壁面 を覆う。「UNTITLED」と題する立体 作品はディスプレイ用の円筒ケースにモノタイプを貼りつけ、モーターで回転する一原のイタズラ心を思わせる作品。思わず笑ってしまう。

 1910(明治43)年8月、徳島県那賀郡平島村(現・阿南市那賀川町)に生を受けた一原有徳は3歳のとき家族とともに 北海道の後志管内真狩村に移住。1923(大正12)年、13歳で真狩尋常小学校を卒業後、父母妹とともに小樽に移り 住んで以後、一生を小樽で過ごした。1927(昭和2)年、当時の逓信省小樽貯金支局(同27年、郵政省小樽地方貯金局 と改称)に少年事務員として入局、1970(同45)年の定年退職まで45年間勤務した。
 ここで今年度から一部リニューアルして市立小樽美術館・文学館の専用として特化されたこの施設の来歴について振り返ってみたい。この庁舎は元々郵政省小樽地方貯金局として戦後の1952(同27)年に実現した。庁舎の設計は、全国各地の郵政省関係の庁舎や現在の外務省本省なども手がけた“近代建築の先人”に数えられる小坂秀雄(1912~2000年) によるもので、竣工当時は戦後の復興期にあって「合理性」を設計のポリシーにモダンなセンスあふれた建築作品として各界 の注目を浴びた存在だった。建物がモダンであれば、そこに働く職員の誇りとセンスも時代の先端を行くものだったことは想像に難くない。時代はやがて「60年安保騒動」を経て「所得倍増論」から「高度経済成長」へと突き進み、東京オリンピックで湧き返るのである。
 課長ポストでの定年退職までこの庁舎に勤務した一原は、その職場の先輩で画家の須田三代治の手ほどきで美術に目覚め、 1957(同32)年ごろから版画の世界に踏み出す。庁舎地階倉庫に放置されていたガリ版刷りに代わる前の石版機と 出合い、やはり職場同僚の技工士の助言でその地下1室を秘密のアトリエとして版画制作に没頭していったのである。「公私混同」が許された時代のおおらかさがそこにある。
 ともあれ、そんな庁舎が小樽市に移管されて市分庁舎となり、やがて文学館(1978)美術館(1979)の開館となり、 今や美術館・文学館の専用施設として再整備特化されたわけだが、その施設で生まれ活躍した“遅咲き”の版画家一原有徳の作品が多数収蔵され、記念ホールを持つ主役の1人となった。そんな例を私自身寡聞にして知らない。
  異例のロングランとなるこの特別展の会期中、12月3日(土)には同美術館で一原有徳の画歴に深く関わった世田谷美術館 の酒井忠康館長を講師に迎え「土方定一と一原有徳~批評家と作家の出会い」のタイトルで講演会が開かれる。

アンリ・ルソーと素朴な画家たち

 小樽市が平成22年度事業として取り組んできた市立小樽美術館・文学館の再整備工事(総事業費1億5千万円規模)が年度末に完了、築後60年も間近の施設(旧小樽地方貯金局=小坂秀雄設計)は美術館・文学館の専用施設に特化されて一新した。このリニューアルを記念する特別展「アンリ・ルソーと素朴な画家たち~いきること・えがくこと」(5月21日ー7月10日)も終幕を前に入館者の姿が増えている。
 この展覧会は世田谷美術館(東京)のコレクションによるもので、財団法人「地域創造」の助成を受けて全国4カ所を巡る共同巡回展として企画された。小樽会場を皮切りにこの後、千葉県市川市の芳澤ガーデンギャラリー、岡山県笠岡市の市立竹喬美術館、そして愛知県春日井市の文化フォーラム春日井へと会場を移すことになっている。「地域創造」の肝入りによるこの「市町村立美術館活性化事業」は今年度で11回目を数える歴史を持つが、小樽が加わったのはこれが初めてのこと。
  さて、この特別展は世田谷美術館が開館当初から問い続けてきた「芸術と素朴」のコレクションから借り受けた45点を展示した。「正規の美術教育を受けず、理論や技術とは無縁に、描きたいという心の衝動に従って作品を創造してきた画家たちを“素朴派“と呼んできた」が、その代表格とされるのがアンリ・ルソー(1844ー1910)である。パリ市税関吏という正業のかたわら40歳頃から絵を描き始め、ピカソや詩人のアポネールらに注目されて世界的画家の地位 を得た。美術批評家で画商コレクターでもあったヴィルヘルム・ウーデによって見い出され、その後、アンドレ・ボーシャン、カミーユ・ボンボワ、セラフィーヌ・ルイ、ルイ・ヴィヴァンらの画家たちが素朴派の仲間入りを果たし、その波はフランスからヨーロッパ、アメリカへと広がる。今回の展示には日本から山下清、谷内六郎、塔本シスコ、久永強ら4人の作品が並んだ。面白い彫刻家としても知られるフェルナンド・ボテロの大作油彩画「アダムとイヴ」はボテボテの男と女が描かれ圧観だ。
 「アンリ・ルソーと聖なる心の画家たち」「素朴派の広がり」「近・現代美術と素朴」の3章立てで合わせて27人の世界の画家たちが紹介され、しっとり落ち着きをみせる展覧会になったと自負している。

大月源二と富樫正雄展

 2011.3.11。東日本から北海道に至る広大な地域を襲った「東北関東大地震」の被災情報が続いている。日本国内はもちろん世界の各国も揺るがす事態である。巨大の枕文字を冠する「地震」-「津波」-「原発事故」の三重苦に見舞われ、救助救難から復興策と考えていくと、文字どおり「気が遠くなる」というものである。とりわけ恐怖を募らせるのが東京電力福島第1原子力発電所で引き起こされた第1~6号機の迷走?いや暴走ともいうべき危機の行方だ。世界の注視と支援もこれによる。日本の危機は原発を稼働する世界の、まさに地球上の全生物の危機といえるのではないか。未だに続くメディアの情報に「言葉を失う」という表現を“初体験”している。  このコーナーとしては“番外”の文章となってしまったが、「想定外」を言い逃れとする政府、東電、専門家らの発言にイラつき、興奮していることを白状して許しを乞いたい。被災地の人々の1日も早い復興を願っていることは申すまでもありません。

 さて、本題である当美術館の展覧会は郷土小樽の具象画家の先達の2人展である。題して「大月源二と富樫正雄展―昇華する写 実・生活のなかに美を求めて」(2月19日~5月15日)。

 大月源二(1904~1971)は函館に生まれたが、父親の仕事の都合で幼少期に小樽に転居、小学校から 庁立小樽中学校を経て東京美術学校(現東京芸術大学)西洋画科に学んだ。樽中時代に水彩 画を通じて小林多喜二との交友が始まり、在京中に小林多喜二が都新聞に連載した新聞小説「新女性気質」の挿絵や、小説「蟹工船」「1928.3.15」のカットなどを描いた。プロレタリア美術運動に参画して治安維持法違反で検挙され、豊多摩刑務所に収監される経験を持つ。戦時中は東京生活で新文展、一水会の受賞など制作に励むが、戦況激化で1944(昭和19)年、故郷小樽に疎開、後志の仁木町でリンゴ園を営みながら制作を続けた。昭和29年の洞爺丸台風(台風15号)でリンゴ園が倒壊したのを機に札幌・手稲に移り住み、「北海道生活派美術家集団」の創立や生活派美術展の開催などリーダーとして活躍した。今回展には16歳の時に描いた水彩画「緑陰の道」をはじめ戦前、戦中、戦後にわたる油彩 33点を出展、生涯の画業をたどることができる。

 富樫正雄(1913~1990)は生っ粋の小樽っ子。12歳ごろから油絵を習い始め、小樽中学2年在学中の昭和2年道展入選を果 たしている。昭和6年、東京美術学校をめざして上京、川端画学校に通いながら翌7年には東京美校西洋画科入学を果たす。大月源二と同じ道である。しかし、在学2年で美校生徒課の官僚体質を嫌って退学、小樽に戻る。中央の文展、一水会に出品、道展でも協会賞受賞(昭和18年)など画歴を重ねる。戦後は大月源二、小竹義夫、金丸直衛、森本三郎、小島真佐吉らと「民主美術研究会」の結成に関わり、地元小樽市展の発足にも大きく貢献した。昭和27年の「北海道生活派美術家集団」の創立にも大月源二とともに関わった。同34年には大月の住む札幌手稲に転居した。

 今回展の出品作はいずれも戦後に制作された30点。ただ1点、戦前の1935(昭和10)年に描かれた「ちよさん」はその後結婚する庁立小樽高等女学校の女学生だった越後チヨである。このチヨさんの姉ヨシさんは画家国松登の妻である。また、1970(昭和45)年制作の「冬の塩谷」は、中学時代の恩師伊藤整を偲んでその死の翌年に描かれた作品で、白波の押し寄せる塩谷海岸の風景は、一連の富樫作品とはひと味変わったもの悲しさが伝わってくる一作である。

 それにしても、生活派の美術家集団を立ち上げるなど貧しい人々の暮らしに心を寄せた大月、富樫の両画伯が、死者・行方不明者1万8千人超という今日の地震被災にどんな「言葉」を発するのだろう。

木版画家 金子誠治 愛の絆

 小樽に腰を据えて版画界に大きな足跡を残した金子誠治(1914~1994)の画業をしのぶ企画展 「木版画家 金子誠治・愛の絆展」が開幕、静かな賑いをよんでいる(会期2010/11/27~2011/2/13)。 没後17年を迎え、あらためてその生涯で残された木版画を中心にモノタイプ、水彩画、油彩画、ガラス絵など の作品合わせて75点が壁面を埋め、内容の濃い展覧会になったと満足している。金子作品も数点所蔵する 当美術館は没後間もない1996年、木版画の代表作を網羅した「木のぬくもりから生まれる・金子誠治展」 を開催しており、以来14年ぶりの“金子展”となるが、本展開催を機に画文集を制作した峰夫人やご家族は「うれしい展覧会と17回忌になりました」と故人に熱い思いを馳せている。
 1914年(大正3)年、砂川で生を受けた誠治(この時は角野姓、戦後ペンネームのつもりで母方の金子姓を名乗る)は5歳時に一家で小樽に移り住み、終生小樽を離れることはなかった。旧制小樽市立中学校で教えを 受けた成田玉泉から、日本伝統の浮世絵版画とは一線を画す「創作版画」の世界を学び、のめり込む。1927(昭和5)年には13歳の若さで道展初入選、1937(同15)年の23歳時には中央の日本版画協会展と 国画会展に初入選を果たしている。この時期には後の版画界の巨匠となる棟方志功との小樽での出会い、そして上京しての親交などと続くのだが、太平洋戦争への突入とその混乱で帰樽、戦中戦後は道展会員として地元小樽はもちろん札幌中心の美術界の発展に貢献する生涯を刻むことになった。
 金子誠治は版画について「絵の俳句である」という言葉を残す。小樽を中心とした北海道の風景、晩年取材 旅行に出かけたヨーロッパ、教師として接した子どもたち、金子を支えた家族の姿、花々などをモチーフにした 作品をみていると「絵の俳句」という表現の鋭さに胸を突かれる思いがする。  伝統的な木版と現代感覚を融合させた金子誠治の多彩な仕事によって創作の軌跡をたどり、根底にある作者の 精神性を感じ取っていただければ幸いである。

素描の技 時を刻む線描

sobyo-keiji[1] 油彩、水彩、彫刻など平面、立体を問わず、造形作家にとってデッサン、クロッキー、スケッチ、エスキースなどの素描は制作活動の出発点といえるだろう。美術家の脳裏に映り、浮かぶイメージやアイデアが形となって具体化する一瞬、そこに他者へのメッセージが生まれる。

 現在、当美術館で開かれている特別展「素描の技 時を刻む線描」(7月17日~9月20日)はそのような美術家の制作の“原点”に焦点を当てて企画された展覧会である。それぞれの作家の個展などで素描も出品される例もあるが、著名作家の素描に的を絞っての企画展は珍しいケースではないかと思っている。来館者の期待に十分応えられる内容になったと自負している。
 出品作家は油彩画家7人と彫刻家5人の合わせて12人、出品作は108点に上る。油彩 画家は故人、現役を含め高森捷三(1908~1977)濱本恵義(1914~2008)亀山良雄(1921~1997)栃内忠男(1923~2009)伏木田光夫(1935~)山田芳生(1946~)輪島進一(1951~)の7人である。また、彫刻家では木内克(1892~1977)柳原義達(1910~2004)佐藤忠良(1912~)阿部典英(1939~)國松明日香(1947~)の5人。ここで特記されるのは阿部典英、國松明日香(ともに札幌在住)の両作家には素描と同時に彫刻作品そのものも出品してもらったため、会場にある種の重量 感をもたらした点である。
 出品作が最も多い阿部典英の素描は29点に上る。アイデアスケッチを日課とする作家だけにその素描にナンバーを打って大切に保存しており、その素描に限った画集「海底」(2003年)「胎動」(2005年)の2冊を刊行した。同時に木や竹、アクリルなどによる彫刻作品「オヨメサンニナレナイオヨメサン」シリーズ2点、「ABE TEN MEN」シリーズ(10点組)「MOKUREIJIN」シリーズ(30点組)も出品され、素描と実作品の対照性が興味深い内容を見せている。
 一方、國松作品は木炭・コラージュの素描9点と鉄とステンレス鋼の立体「水面 の風」シリーズなど4点が並んだが、こちらは素描と立体作品が共通 項をもちながら微妙に独立した作品空間を見せてくれる。
 さて、平面作家の圧観は輪島進一の大作を含む11点と山田芳生の大小作品17点。輪島は「水景のリズム」「インフィニティ」「楽屋裏にて」などのタイトルで裸婦や踊り子、風景をモチーフに大判のマーメイド紙にペンで描かれたモノクロームの世界の完成度は高い。これは“素描”を越えた作品となっている。
 山田芳生の出品作は「妻と娘」「男の顔」などの素描11点のほか「女の立像」と題する連作5点と「心象風景」と題した1点を合わせ油彩 画6点が並んだ。描き込まれた油彩とデッサンの対比に興味がひかれる…
 最後になるが、佐藤忠良の素描8点や亀山良雄1点、伏木田光夫4点、栃内忠男「ふたつのりんご」1点、木内克の「裸婦」2点などの素描はいづれも札幌芸術の森美術館のコレクションから借り受けた貴重な作品であることを記して感謝にかえたい。

小樽・水彩画の潮流

 

「風景」平沢貞通
「赤松と海」平沢貞通

 小樽画壇は油彩とともに水彩画の分野もその伝統と層の厚さを 誇る。その歴史的流れに焦点を当てた企画展「小樽・水彩画の潮流」(2月27日~5月9日)が当美術館2階ホールで始まった。副題は「平沢貞通 ・埋もれた画業の発掘」である。戦後の混乱期に東京で発生した「帝銀事件」の犯人として捕まえられ、無実を訴えながら死刑囚として獄死したあの平沢貞通 (1892~1987)は、大正時代から昭和初期にかけて帝展や光風会を舞台に中央画壇で活躍したが、裁判による死刑判決とともに残した300点にも上ろうという作品群は散逸、画壇仲間との人間関係も崩壊する中でその輝かしい画業自体が歴史の闇に埋もれてしまったのである。
 当美術館は昨年開館30周年を記念して特別展「画家たちのパリ」を開催、その中で大正―昭和期にパリ遊学を果 たした小樽出身の長谷川昇、小寺健吉、工藤三郎ら洋画界の先人の画業を紹介したが、旧制小樽中学出身の平沢貞通 は彼らと同時代人であり、1914(大正3)年には自らも創立に関わった日本水彩 画会研究所の小樽支部を設立、当時青少年期にあった三浦鮮治、兼平英示、中村善策、国松登ら後進に大きな刺激を与える功績を残したのである。こうした平沢の画業に光を当て、再評価を世に問うのは当美術館の使命、義務ともいえる。
 平沢に無実を信じ「再審請求」の弁護士だった父の遺志を継ぎ平沢と養子縁組みした息子・武彦氏(東京在住)をはじめ各方面 の支援者の協力を得て31点の作品展示がここに実現した。公立美術館としては初めての規模となり、感慨を覚えている。

「水源(伊佐内川)」森田正世史
「丸山晩秋」氏家和夫
 

 今回の企画展はこれらの平沢作品を軸にして続く小樽水彩画界を担ってきた宮崎信吉、森田正世史、繁野三郎、板倉力蔵、中島鉄雄、大和屋巌、鈴木儀市、坂東義秋、氏家和夫、白江正夫、笹川誠吉、高橋好子ら合わせて13人の水彩 画67点が壁面を飾り、見応えのある高水準の内容になったと自負している。幸い開幕から入館者の出足は好調で、その数も通 常の企画展を上回るペースをみせており、さらなる入りを期待している。
 また、1階常設の中村善策記念ホールでは「四季の彩り・春夏秋冬」のタイトルで新収蔵品の「山湖」(絹地に油彩 画)をはじめ日展や一水会展に出品された20点を展示している。

 
「マテラ街景」笹川誠吉 「さいはて」白江正夫 「婦人像」宮崎信吉

女流三作家のまなざし

 当美術館の開館30周年を記念する特別展の第2弾「女流三作家のまなざし-響きあう色とかたち」展(7月25日-9月22日)が開幕しました。特別展の第1弾「画家たちのパリ」展(5月23日-7月20日)は、小樽はもちろん広く北海道、さらには日本中央画壇の草創期に活躍した長谷川昇、小寺健吉、工藤三郎の小樽出身者を軸に、明治期から大正期にかけてこの3人が雄飛した芸術の都パリに焦点をあてた「エコール・ド・パリ」の作家たちの作品を展示したものでした。
 そこで、続く第2弾もパリにこだわり、パリ遊学を果たした小樽ゆかりの作家という文脈の中で3人の女流作家に登場願うことになりました。油彩 画家のデュボア康子(札幌在住)、マユミ・ウヌマ・リンク(フランス・アルザス在住)と立体作家の平田まどか(札幌在住)の3人です。デュボア康子とマユミ・ウヌマ・リンクの2人は国際結婚した小樽っ子で、平田まどかは祖母が小樽商大でフランス語の教鞭をとっていたという縁があります。また、デュボア康子と平田まどかはパリ国立美術大学に学び、マユミ・ウヌマ・リンクもパリのアカデミージュリアンで学んだ経歴を持つ。デュボア、平田の2人は帰国したが、マユミは1985年からフランスとドイツの国境に近いアルザスに住みつき、ヨーロッパ各地の公募展や個展で活躍、パリSNBAソシエテ・ナショナル・デ・ボザール展会員となっている。
 さて今回の特別展の出品作である。  
 全道展会員で独立展会友でもあるデュボア康子は人物をモチーフとする油彩 の大作11点。「呼吸」シリーズ8点のほか「なにを想う」「風にのって」など力強いタッチで作家の心象風景が見るものに迫る半具象。
 戸外や室内の立体制作が多い平田まどかは「ランチボックス」のタイトルで白を基調とするリノリウムの床面 とウレタンフォームのオブジェ、そして壁面にステンレスワイヤに紙とステンレス製のランチボックス20数個をつるしたオリジナル空間を構成した。
 また、マユミ・ウヌマ・リンクは、鮮烈な赤や黄、青など色彩 豊かな油彩16点を出品。大小自在な作品が壁面を飾り、私はそこにモーツァルトの音を感じてしまう。
 会場は平田まどかを中心に油彩2作家のコーナーがバランスよく仕切られた形となり、鑑賞者がじっくり楽しめる空間になったと自負している。美術愛好者の多数の来場を期待しています。
 一方、当美術館1階を占める常設の中村善策記念ホールは、特別 展「画家たちのパリ」終了とともに復活、個人所蔵者の寄託作品による「中村善策風景画」展が始まりました(10月18日まで)。特別展・開催中は閉鎖していたため「中村善策を見に来たのに…」という苦情もあった“常設”ファンもいることに驚きました。ゴメンナサイ。現在の「風景画」展は、当美術館に個人所蔵者から寄託されて収蔵されている大小27点を展示しました。2階の特別 展・と合わせて楽しんでください。

 

  ここで51日間の会期を終えた開館30周年記念特別展・「画家たちのパリ」についての結果 報告です。期間中の入館者数は5,684人に上り、開館以来2番目の入りを記録しました。昨年の常設化20周年を記念する「中村善策の全貌」展の入りが4,350人だったので、今回5千人を目標としていたのですが、入館料を過去最高の千円としたことなど不安材料もあったのですが、市内の経済人らを中心とする特別 展実行委員会を発足するなど、市民の支援体制が目標のクリアに大きな力になったものと感謝しています。

 また、昨年1年間のアンケート「どちらからいらっしゃいましたか?」調査で、入館者に占める市民の比率が2割5分、つまり4人に1人が小樽市民という実態がわかったため、この比率を「半数は市民に」の目標を掲げていたのですが、これも5割に近い49%に跳ね上がり、大満足という訳です。さらに無料開放としている小中学生の入りが不振だったため、市教委などに学校現場への働きかけを依頼したのが功奏したのか子供たちの声も多く聞かれるようになり、先行きに期待が持てる展覧会になりました。支援者の皆さまに厚くお礼申し上げます。

市立小樽美術館開館30周年記念特別展「画家たちのパリ」展

 小樽市民の熱い視線を浴びながら市立小樽美術館は1979(昭和54)年8月、開館した。それから数えて今年で開館30周年の節目を迎え企画された記念特別展「画家たちのパリ」展のオープニングセレモニーが5月23日午前9時から同美術館1階のエントランスホールで開かれた。この日の開幕を祝って山田勝麿小樽市長をはじめ小樽商工会議所の鎌田力会頭、小樽商科大学の山本眞樹夫学長、道立近代美術館の相馬秋夫館長らも駆けつけ、出席者は総勢百人を超えるかつてないにぎわいのセレモニーとなった。
 まず、主催者を代表して挨拶に立った西條文雪記念特別展実行委員長は多数の出席に感謝を述べるとともに「初めて実行委員会方式による特別展を是非成功させたい。そのために前売券や図録の販売に努めてきたが、なんといっても多くの人々が展覧会を見にきてくれることがカギになるので友人、知人、そして何より子どもたちの入館を呼びかけて欲しい」と力を込めた。続いて来賓の山田市長、同展企画協力の相馬道立近代美術館長、共催の中塚敏明北海道新聞小樽支社長、山本小樽商大学長らが挨拶に立ち、同展の成功を願ってエールをおくった。
この特別展は、小樽の黄金期を築いた明治末期から大正期に、当時の東京美術学校(現東京芸術大学)西洋画科に学んだ後、パリに遊学したともに小樽出身の長谷川昇(1886~1973年)小寺健吉(1887~1977年)工藤三郎(1888~1932年)の3人の画家にスポットを当てた第1部「青春の巴里-小樽の外遊画家たち」と第2部「エコール・ド・パリの画家たち」の2部構成で企画された。第1部は小樽から渡仏した3人が日本洋画壇に残した足跡をたどる内容(出品25点)、そして第2部はこの3人が渡仏した当時、パリで活躍していたユトリロ、シャガール、マリー・ローランサン、キスリング、スーチン、パスキン、アンドレ・ドラン、ヴァン・ドンゲンら11人の画家たちの作品約40点を集め、その頃のパリの雰囲気を味わってもらう狙いである。
 長谷川ら3人が遊学した当時のヨーロッパは第1次世界大戦後から1929年に始まる世界大恐慌までの1920年代の激動期に当たり、芸術の都パリにはあの藤田嗣治らも暮らしている「エコール・ド・パリ」のエポックを築いた時代。この展覧会に触れることで、当時の世界の、そして小樽の歴史に触れてもらうのがもう一つの狙いとなっている。
 相馬道立近代美術館長には、その挨拶の中で「市立小樽美術館ならではの企画であり、内容豊かなもの」と賞讃の言葉を戴いたが、小樽市民はもちろんのこと、札幌近郊をはじめ道内外の多数の美術ファンの来館を期待している。(会期は7月20日まで)。 keiji-pari-top[1]

企画展 小樽風景・個性の響き

 秋恒例の小樽市文化祭が繰り広げられる中、当美術館でも「美術市展」「書道市展「写 真市展/和紙ちぎり絵展」「小樽ユース展」などで賑わいを見せ、ほぼ1カ月間の展覧も幕を閉じた。 この秋は例年になく温暖な日和に恵まれ、訪れる市民も多かったのではないかと思う。
 当美術館で今春から夏にかけて続いた特別展1「中村善策の全貌展」同2「写実の求道者-伊藤正展」は、入館者が過去の記録を更新する7400人を超え、盛会裏に閉幕した。中村善策展では関連企画として市立松ヶ枝中学校の1年生全員が参加する「中村善策の写 生地めぐりとスケッチ」「ワークシートでの美術館学習」「中村善策壁新聞の制作」などが行われた。この一連の行事は同校の「総合学習」としてカリキュラムに組み込まれ、初めてのケースとして、各方面から注目された。k-o-2[1]

 この成果を発表する場として11月1日から1カ月間、常設の中村善策記念ホール(1F)で当美術館が収蔵する善策作品から人気投票で選んだ作品を展示、合わせて生徒たちのスケッチも陳列する運びとなった。後半の半月間には壁新聞も同ホールに張り出すプランだ。この試みは生徒らのアイデアによる同ホールの企画展「見て・聞いて・描いて-私の好きな中村善策展」として実現し、多くの人々に楽しんでもらえるものと期待を寄せている。

k-o-1[1] 一方、2階の展示室では当美術館の企画展「小樽風景-個性の響き」(~2009年1月25日)が開かれている。これは小樽ゆかりの画家9人による風景画展である。「絵になる街」と定評のある小樽の風景を、それぞれの画家の感性と手法を通 じて楽しんでもらう狙いである。出品画家は小樽在住の小川清、冨澤謙、堀忠夫、山下脩馬、羽山雅愉の5人と、小樽出身の木嶋良治(札幌)小平るり子(千葉・習志野)の2人、そして30年以上も小樽に通い運河、街の家並みなどを描き続ける佐藤善勇(東京・八王子、主体美術)と小樽桜陽高校で5年間教鞭をとったことのある輪島進一(函館)の合わせて9人が、いずれも大作ばかり3~5点を出品している。実力派の洋画家による“共演”は見ごたえのあるものと自負している。

 

 ところで、先の中村善策、伊藤正の特別展を通じて実施した来館者の居住地アンケート「どちらからいらっしゃいましたか」調べの結果を紹介します。答えて頂いたのは3,784人に上った。その比率を居住地別に分析した結果は、小樽市内24.8%、札幌市42.7%、上記2市以外の道内16.0%、道外14.9%、国外1.6%。小樽市民の来館者が予想外に少なく、札幌を含めた道内は実に58.7%と、ほぼ6割を占めたのが注目された。道外勢の約15%も観光都市としての小樽の一面を物語る数値といえるだろう。

▲pagetop