市立小樽美術館 市立小樽美術館協力会

KANCHOの部屋

小樽1970-80年代の新風 鵜沼人士とともに

keiji-unuma[1] 2009年1月18日、みなと町小樽に生まれ育った油彩画家・鵜沼人士が52歳の若さで急逝した。ガンだったと聞く。道立札幌西高等学校の美術教師としての在職死だった。
  惜しまれたその死から早3年が過ぎ、彼と同世代で現在なお現役作家として活躍する小樽ゆかりの仲間たちの出品を願って、企画展 「小樽1970-80年代の新風 鵜沼人士とともに」(2月18日~5月13日)を実現することができた。同展に作品を寄せてくれた仲間は年長順に豊田満、末永正子、澤田範明、坂東宏哉、鵜沼人士、小林大、武石英孝、丸山知子、谷口明志、福原幸喜、そして現在は仏人と結婚してフランスにすむ実姉のマユミ・ウヌマ・リンク(鵜沼真弓)の11人で、丸山の1点を別 として、残る10人は各5点前後を出品した。 小樽、札幌、岩見沢など道央圏在住の北海道美術協会(道展)会員が大半を占める。
  彼らが画家の道に踏み出した1970-80年代は日本が高度経済成長を遂げ、安定した右肩上がりの時代に突入した時期。’72年には札幌 オリンピック冬季大会で、宮の森ジャンプ台で笠谷幸生選手ら3人の“日の丸飛行隊”に湧き、札幌地下鉄開通 、ダイエー、イトーヨーカ堂、 札幌パルコなど西武グループ、東急系大規模小売店の進出など、オイル・ショックを含め経済ニュースが新聞・テレビをにぎわした。この頃 20代だった彼らは次々とグループ展を立ち上げ、小樽美術界に久々の新しい波を巻き起こしたのである。
  好景気の時代背景が芸術文化の世界に活気をもたらす例は、日清・日露戦争を経て小樽経済が急成長を果 たした明治末期から大正、昭和初期に美術界でみると、花の都パリに遊学した長谷川昇、小寺健吉、工藤三郎の3人をはじめ、平澤貞通 、三浦鮮治、兼平英示、中村善策、国松登、 大月源二、鈴木伝ら有力な画家が登場、美術史に「小樽派」の表現が見られるほどの勢いを見せた。戦後の復興期にもこうした例をみられよう。
  鵜沼人士の画業と生涯をしのび、そしてその仲間たちの果実を楽しんでほしい。

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