市立小樽美術館 市立小樽美術館協力会

KANCHOの部屋

大月源二と富樫正雄展

 2011.3.11。東日本から北海道に至る広大な地域を襲った「東北関東大地震」の被災情報が続いている。日本国内はもちろん世界の各国も揺るがす事態である。巨大の枕文字を冠する「地震」-「津波」-「原発事故」の三重苦に見舞われ、救助救難から復興策と考えていくと、文字どおり「気が遠くなる」というものである。とりわけ恐怖を募らせるのが東京電力福島第1原子力発電所で引き起こされた第1~6号機の迷走?いや暴走ともいうべき危機の行方だ。世界の注視と支援もこれによる。日本の危機は原発を稼働する世界の、まさに地球上の全生物の危機といえるのではないか。未だに続くメディアの情報に「言葉を失う」という表現を“初体験”している。  このコーナーとしては“番外”の文章となってしまったが、「想定外」を言い逃れとする政府、東電、専門家らの発言にイラつき、興奮していることを白状して許しを乞いたい。被災地の人々の1日も早い復興を願っていることは申すまでもありません。

 さて、本題である当美術館の展覧会は郷土小樽の具象画家の先達の2人展である。題して「大月源二と富樫正雄展―昇華する写 実・生活のなかに美を求めて」(2月19日~5月15日)。

 大月源二(1904~1971)は函館に生まれたが、父親の仕事の都合で幼少期に小樽に転居、小学校から 庁立小樽中学校を経て東京美術学校(現東京芸術大学)西洋画科に学んだ。樽中時代に水彩 画を通じて小林多喜二との交友が始まり、在京中に小林多喜二が都新聞に連載した新聞小説「新女性気質」の挿絵や、小説「蟹工船」「1928.3.15」のカットなどを描いた。プロレタリア美術運動に参画して治安維持法違反で検挙され、豊多摩刑務所に収監される経験を持つ。戦時中は東京生活で新文展、一水会の受賞など制作に励むが、戦況激化で1944(昭和19)年、故郷小樽に疎開、後志の仁木町でリンゴ園を営みながら制作を続けた。昭和29年の洞爺丸台風(台風15号)でリンゴ園が倒壊したのを機に札幌・手稲に移り住み、「北海道生活派美術家集団」の創立や生活派美術展の開催などリーダーとして活躍した。今回展には16歳の時に描いた水彩画「緑陰の道」をはじめ戦前、戦中、戦後にわたる油彩 33点を出展、生涯の画業をたどることができる。

 富樫正雄(1913~1990)は生っ粋の小樽っ子。12歳ごろから油絵を習い始め、小樽中学2年在学中の昭和2年道展入選を果 たしている。昭和6年、東京美術学校をめざして上京、川端画学校に通いながら翌7年には東京美校西洋画科入学を果たす。大月源二と同じ道である。しかし、在学2年で美校生徒課の官僚体質を嫌って退学、小樽に戻る。中央の文展、一水会に出品、道展でも協会賞受賞(昭和18年)など画歴を重ねる。戦後は大月源二、小竹義夫、金丸直衛、森本三郎、小島真佐吉らと「民主美術研究会」の結成に関わり、地元小樽市展の発足にも大きく貢献した。昭和27年の「北海道生活派美術家集団」の創立にも大月源二とともに関わった。同34年には大月の住む札幌手稲に転居した。

 今回展の出品作はいずれも戦後に制作された30点。ただ1点、戦前の1935(昭和10)年に描かれた「ちよさん」はその後結婚する庁立小樽高等女学校の女学生だった越後チヨである。このチヨさんの姉ヨシさんは画家国松登の妻である。また、1970(昭和45)年制作の「冬の塩谷」は、中学時代の恩師伊藤整を偲んでその死の翌年に描かれた作品で、白波の押し寄せる塩谷海岸の風景は、一連の富樫作品とはひと味変わったもの悲しさが伝わってくる一作である。

 それにしても、生活派の美術家集団を立ち上げるなど貧しい人々の暮らしに心を寄せた大月、富樫の両画伯が、死者・行方不明者1万8千人超という今日の地震被災にどんな「言葉」を発するのだろう。

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