市立小樽美術館 市立小樽美術館協力会

KANCHOの部屋

「北方的」な芸術とは?

 北欧にはシベリウス、グリ-グ、ニールセン、アルヴェーン、マデトヤなど魅力的な作曲家が多数いる。中でも私はシベリウス(1865~1957)のファンであり、とりわけ交響曲第7番(1924年)が好きである。シベリウス最後の交響曲であり、交響曲とは言っても単一楽章で、演奏時間も20分程度と短く、内容的には幻想的な交響詩というような曲である。ブルックナーやマーラーの壮大な交響曲とは全く方向が異なって、簡潔である。しかし、その表現するものは限りなくといっていいほど奥行きが深いと感じられる。印象的な主題がいくつかあって、それが複雑に溶け合うように展開する。具体的な自然現象を思わせるような描写は全くない。音楽を言葉で表現すると徒労に終わることは承知の上で書き続けるなら、最後の一音が消えていったとき、私の感覚は遥か彼方へ開放され、静寂な空間がどこまでも広がっていくようで、深く心が動かされるのである。

 シベリウスは、この曲で故国フィンランドの自然と歴史と自らの人生を反芻し、すべてを語り尽くしたと感じたのかもしれない。その後も交響詩「タピオラ」(これもすばらしい)などが作曲されたが、まもなく彼は引退し、ほとんど書き上げていたと言われる交響曲第8番をはじめとする多数の楽譜は人に見せることなく破棄されたそうである。自作に厳しいのはやむをえないが、なんともったいないことだろうか。

 ところで、このエッセイで考えたいのは「北方的」ということである。シベリウスの音楽は西洋の作曲家中では最も北方的に感じられる。いや「北欧的」というべきかもしれないが・・・それは彼の多数の作品で感じられるのだが、どうしてそう感じられるのか。旋律なのか、和声なのか、リズムなのか、その全部か・・・単に北欧フィンランドの作曲家としてのシベリウスの存在が頭に刷り込まれているからそう感じるだけではないのか?という疑問も湧いて来るのである。

 絵画をそれに例えるなら、北国出身の画家による故国の風景や民俗を多く使った作品であるというようなことになるのだが、この単純な条件に該当する画家は非常に多数いるだろう。多くの北欧出身の作曲家も同様で、単に故国の民謡を主題にしているからというような理由では回答にならないのである。ローカルをグローバル化する力というべきか、群を抜いた芸術的才能によって、地域の文化を高次元で昇華し国際的に認知させる力が必要であろう。また、シベリウスの場合がそうであったように、国民的な芸術が要求される時代に生きたことによる民族的、政治的な背景も大きな要件である。さらに、フィンランドにおける『カレワラ』という神話的叙事詩の存在がシベリウスにとって大きなものであったように、民族や国家の持つ過去の神話や芸術も大きな意味を持つ。

 ということなので、「北方的」であることを考えるのは容易には収拾のつかない問題なのである。私にとって身近なところで考えるなら、「北海道的」という表現もある。「北方的」「北欧的」とある程度重なるイメージがある言葉である。代表的な作家としては、片岡球子、砂澤ビッキ、難波田龍起などで使われている例があったように思う(他にも用例は無数にあるが)。これらの作家は北海道ゆかり、あるいは生まれであるという以上に作風に大きな関連性は無い。おのおの極めて個性的な世界を持ち、影響関係もほとんどない。

 上記の3人は私自身も作家論を書いたことがあるのだが、「北海道的」あるいは「北方的」という言葉に関しては極めて慎重に扱った。というのもこの言葉の感覚的な使用が各作家のローカル性を強調し存在を矮小化してしまうことになるのではないかということ、さらに各作家の個性を表現する適切な言葉が見つからないので逃げ言葉として使ったように見えるのではないかということであった。彼らの作品は広く日本文化の視点から複合的に考えるに足るだけの内容を持っているのだから、そんなことをしては礼を失するのである。

 ただし、堂々巡りになるが、北方的な要素は彼らの作品に間違いなく存在すると思う。鑑賞する場合ならそれを何となく感じればよい。ところが解説や文章を書く我々の場合は、その内容を具体的で複合的な視点から説得力のある議論を展開できるか、ということにかかってくる。これはなかなか難しいので、情けないが逃げを打つことになることも時にはあるわけである。鋭い読者なら、そんな手抜きで腑抜けの文章はすぐに見透かされてしまう。作品の本質に迫る努力が要求されるのである。

新明 英仁

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