市立小樽美術館 市立小樽美術館協力会

KANCHOの部屋

見るもの聴くもの

私は数十年来のクラシック音楽ファンである。私の育った旭川で演奏会が開かれるのは珍しかったから、少年時代はLPレコードを聴いていた。またFM放送も良く聴いていた。昭和40年代当時2,000円のレコードを買うと毎月の小遣いはなくなった。それでも小遣いは友人の中では多いほうだった。安価な装置で高価なLP一枚を何十回も繰り返して聴いていた。

ところがやがてCDの時代がやってくる。デジタル?・・・そんな意味のワカラナイものは聴くものかと思っていたが、時代の流れに呑まれ、CDを買い揃えるようになった。小遣いの過半はそれに費やした。何とか再生装置もそろえた。集めたLPを半分くらい売った。しかし、何かの本にはLPのほうが音は良いと書いてあったと記憶する。全盛のCD業界に遠慮して片隅にちょっとである。

そして最近、再びLPが見直されてきた。それまでCDの再生装置は安物を故障するまで使っていたが、一念発起して総入れ替えし、さらにアナロク(LP)プレーヤーや真空管アンプを買い足した。50代にしてオーディオという、未知の世界へ足を踏み入れることになった。

聴いてきたCDをすべて聴きなおしたいと思うほど、音が良くなった。低音の弦楽器やティンパニの音が底から鳴り響く。そして、古いLPを聴いてみてさらに驚く。楽器の音が優美である。解像度が高くなりオーケストラのすべての楽器の音が聞こえてくるようだ。多数のLPを売ってしまったことを少し後悔した。

ところで、音楽の場合、音の世界だからCDでもLPでも本物、もしくはそれに近い世界である。むろん、実演にはかなわないが、実演は日時と場所とプログラムに選択の余地があまりない。CDやLP再生の場合は自宅で自分の気に入った曲目・演奏を良い録音で繰り返し聴けるわけである。

だが、美術の場合はそうは行かない。実物との出会いはほとんどの場合、一期一会である。

画集や作品集は、教育・教養のためや鑑賞の記憶を呼び戻すのには大変有効だが、実物ではない。それでも絵画や版画ならば印刷物の平面に納まるが、彫刻などの立体となると印刷物では絶望的である(印刷技術と写真家の腕次第でかなり良いものは作れるのだが、それはそれで長くなるのでここでは書かない)。

一期一会といえば、最初のそれは新米学芸員の研修を兼ねたフランス旅行でやって来た。30年以上前である。

言わずと知れたルーブルである。これは何と言っても王道である。

盛期ルネサンスの部屋に入ったとき、芸術の神様が降りてきた。巨匠たちの絵画の恐るべき重みと輝き・・・感じたものは、永遠の時間、何時間そこにいても飽くことのない美の世界・・・私はそれに完全に打ちのめされた。

美術館の学芸員をしていながら出不精であった私は、初めて実物を鑑賞することの本当の意味を体感したのである。何と遅い体験だったことだろう。私の育った当時は北海道に美術館などほとんどなかったから、訪問する機会も習慣も持たずに画集をながめていたのであった。

その後、何度かこのような体験をした。感動した対象は古今東西絵画彫刻工芸いろいろあるが、比較的まれな出来事ではあった。仕事の合間を縫って美術館や画廊に見に行く時間などほとんど取れない。通常の仕事では自分の勤務している美術館の所蔵品か特別展の出品作を除くと、印刷物の図版を参考にすることのほうが圧倒的に多い。期待すると実物を見てがっかりすることもある。だが、なるべく多数の作品を見る努力は必要だ。

いずれにしても、研究や展覧会、作品の収集のためには、ほぼすべての関連作品を事前に実際に見て調査する必要があり、そのための調査に時間とお金がかかるのである。この場合、作品の品定めをすることができる「眼」が何よりも重要となる。苦労して時間をかけて調査し、研究し、展覧会を企画実現したとき、それらの作品は自分の人生にとってもかけがえのない一期一会の記憶となって残るのである。

何となく、趣味から仕事の話になって肩に力が入ったようである。今回はこれにて。

新明 英仁

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