市立小樽美術館 市立小樽美術館協力会

KANCHOの部屋

終わりなき版への挑戦 没後一年 一原有徳 大版モノタイプ

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 小樽が生んだ「現代版画の鬼才」一原有徳が100歳の天寿を全うして昨年10月1日に逝去して1年が過ぎた。その画業を偲ぶ遺作の特別展「終わりなき版への挑戦~没後一年 一原有徳 大版モノタイプ」が10月22日から市立小樽 美術館の2階展示室で始まった。会期は2012年2月12日(日)までと異例のロングランである。同美術館のリニュ ーアル再整備に伴い3階に新装常設化された「一原有徳記念ホール」で今年4月から開催中の企画展「幻視者 一原有徳」 と合わせ、ケタはずれの創意と創造力に満ち溢れた「イチハラ・ワールド」は、来館者にとって十分楽しんでもらえる ものと期待している。
 1点刷りのモノタイプ作品に的を絞った今回の特別展には石版、ステンレス版、アルミニウム版から紙に刷り上げた大小 の作品のほか、ステンレス版にアセチレンのバーナーで焼き付けた超大作など、合わせて44点を展示した。同美術館の 所蔵作品に加え、床面や壁面を覆い尽くすような超大作を所蔵する(株)アートフロントギャラリー(東京)の協力を得て 12点を借り受けた。中でも「SANYO]のタイトルがつくA~Eのシリーズ6点は、194.0×530.0cmをはじめ、これ を超えるアルミニウム版モノタイプの大作で目を奪う迫力を、そして静寂を感じさせる。
 「COMZON」のタイトルがつくモノタイプは床から天井まで直径50cmの円柱で高さは360cm。やはり同タイトルのステ ンレス版のアセチレンガスバーナー焼き抜きの作品は360cm四方の大作が壁面 を覆う。「UNTITLED」と題する立体 作品はディスプレイ用の円筒ケースにモノタイプを貼りつけ、モーターで回転する一原のイタズラ心を思わせる作品。思わず笑ってしまう。

 1910(明治43)年8月、徳島県那賀郡平島村(現・阿南市那賀川町)に生を受けた一原有徳は3歳のとき家族とともに 北海道の後志管内真狩村に移住。1923(大正12)年、13歳で真狩尋常小学校を卒業後、父母妹とともに小樽に移り 住んで以後、一生を小樽で過ごした。1927(昭和2)年、当時の逓信省小樽貯金支局(同27年、郵政省小樽地方貯金局 と改称)に少年事務員として入局、1970(同45)年の定年退職まで45年間勤務した。
 ここで今年度から一部リニューアルして市立小樽美術館・文学館の専用として特化されたこの施設の来歴について振り返ってみたい。この庁舎は元々郵政省小樽地方貯金局として戦後の1952(同27)年に実現した。庁舎の設計は、全国各地の郵政省関係の庁舎や現在の外務省本省なども手がけた“近代建築の先人”に数えられる小坂秀雄(1912~2000年) によるもので、竣工当時は戦後の復興期にあって「合理性」を設計のポリシーにモダンなセンスあふれた建築作品として各界 の注目を浴びた存在だった。建物がモダンであれば、そこに働く職員の誇りとセンスも時代の先端を行くものだったことは想像に難くない。時代はやがて「60年安保騒動」を経て「所得倍増論」から「高度経済成長」へと突き進み、東京オリンピックで湧き返るのである。
 課長ポストでの定年退職までこの庁舎に勤務した一原は、その職場の先輩で画家の須田三代治の手ほどきで美術に目覚め、 1957(同32)年ごろから版画の世界に踏み出す。庁舎地階倉庫に放置されていたガリ版刷りに代わる前の石版機と 出合い、やはり職場同僚の技工士の助言でその地下1室を秘密のアトリエとして版画制作に没頭していったのである。「公私混同」が許された時代のおおらかさがそこにある。
 ともあれ、そんな庁舎が小樽市に移管されて市分庁舎となり、やがて文学館(1978)美術館(1979)の開館となり、 今や美術館・文学館の専用施設として再整備特化されたわけだが、その施設で生まれ活躍した“遅咲き”の版画家一原有徳の作品が多数収蔵され、記念ホールを持つ主役の1人となった。そんな例を私自身寡聞にして知らない。
  異例のロングランとなるこの特別展の会期中、12月3日(土)には同美術館で一原有徳の画歴に深く関わった世田谷美術館 の酒井忠康館長を講師に迎え「土方定一と一原有徳~批評家と作家の出会い」のタイトルで講演会が開かれる。

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