市立小樽美術館 市立小樽美術館協力会

KANCHOの部屋

奄美(南西諸島)と自然

 夏が来ると、いつも思い出すのが奄美旅行のことである。最初の旅行は20年ほど前になる。そして南西諸島への旅行が病みつきとなり、奄美大島に4回、徳之島に3回、石垣島に2回と立て続けに旅行した。目的は言うまでもなく昆虫の採集である。その成果は年によってまちまちだが、平均的に見てまあまあであるとは言えるだろう。

 むろんここで書くのは虫採り学芸員の自慢話ではない。それらの島々の美しさについてであり、その次に絵の話である。

最初の奄美旅行で名瀬空港に着陸する前に見た青緑に輝く海の色、それは、今でも自分の記憶の中で最も美しいものとして記憶に残っている。そして車の窓から見た白い海岸線と山と海が織り成す夕景もそうである。最初に宿泊した奄美の民宿(当時の住用村和瀬地区)は、海沿いの小さな湾の小さな集落にあり、商店は1件しかなかったが、青く美しい珊瑚礁が目の前にあった。民宿の人がそこから漁をした魚が毎日のように食卓をにぎわした。

朝、早起きして民宿の前の道に出ると、未明の薄暗い光の中、海の方角から多数の大きな蝶が飛んでくる。道端のハイビスカスの花に集まるものもあれば、内陸へ向かうものもある。その蝶の中には、熱帯低気圧に乗ってはるか南方から海を渡ってきたと思われるものもいた。「海洋を渡る蝶」といえば、画家三岸好太郎(みぎし・こうたろう 札幌市生 油彩画 1903~1934)の絵が知られているが、例えば谷文晁にも群蝶が海を渡る図があったので探せばいくつかありそうである。三岸の絵は、すばらしい作品だが、飛んでいる蝶(蛾も含む)からみて想像の産物である。私が見たのは、その現実版であるが、幻想的で今でも夢見るように思い出すことがある。また、徳之島には沖合いで戦艦大和が沈没したため、海沿いにその慰霊碑があるのだが、その海岸線の長く白く美しいこと、まばゆくて正視できないほどであった。

この奄美大島と徳之島には猛毒のハブが棲んでいることはご存知と思う。何人か知り合った民宿の素敵な「おばさん」を含め、現地の人でハブの恐ろしさを語る人は多いのだが、自然の中で実際に見たことのある人は少ないようだった。私は、夜間に林道に入ることもあるので、不意に出くわさぬよう常に気をつけていた。そしてかなり大きいものも含めて何匹か見かけた。彼らは自衛のために人を襲うのであって、必要以上に近づかなければ何事も起こらない。むしろ音を立てて近づけば逃げていく。奄美や徳之島の人々は、山林を避けて自然に遠慮するように海沿いに集落を作って生活している。これも自然との不要な衝突を避けるためだったという話をどこかで聞いたことがある。

余計なことに話が飛んだが、奄美の画家といえば近年再評価が進んだ田中一村(たなか・いっそん 日本画 1908~1977)がいる。現在奄美大島には彼を記念した美術館があるが、それが出来る以前の1995年、道立旭川美術館で学芸課長をしていたとき「田中一村展」の巡回展会場に加えてもらう機会に恵まれた。画壇を遠く離れて奄美で本格的に才能を開花させたこの画家については多くの人が語っている。私がその作品に関心を持ったのは、彼の作品が花鳥画中心であり、その中にイシガケチョウ、ツマベニチョウなど南日本(西日本)にしか生息しない魅力的な蝶が描かれていたからでもあったが、それ以上に、生命のかたちを色彩鮮やかに浮かび上がらせる南西諸島特有の自然、光、空気の力が、一種の活力と熱気をもって画面に封じこめられていたからではないかと思う。

このような作品を描くのは、旅行や短期滞在では到底不可能である。そこの住人となって生活し自然に入り込む必要がある。というより、これこそ画家のあるべき姿なのでないか・・・便利な大都会に住んで器用に描き名前が少しは知られたとしても、本当にいい作品が描けるのだろうか・・・という絵画の本質に関わる問題にもつながるだろう。ある土地に長く住んで特有の風土を余すところなく描いた作家を私は何人か知るが、彼らの作品では、流行も虚飾も抑制され、描く対象に対する没入の中から個性的表現が深く滲み出てくるようになる。したがって毎年見る四季の自然の美しさと同様に見飽きることがないのである。

新明 英仁

怪談・絵画と文学

「これは実際にあったことである。」・・・と書き始めて恐ろしい体験談を語ることができるのなら良いが、残念ながら、そのような経験はない。

しかし、若い頃は、無闇と暗がりや離れた場所にあるトイレが恐ろしかった。その上、ポオやハーンの著作を読んで、勝手に怖がっていた。これは子供の頃の又聞きの又聞きだが、ある病院の長い廊下で夜中に看護師が患者さんとすれ違ったので互いにあいさつをした、あとで思い返すと、その患者さんは昨日亡くなった方であったというのである。ありきたりの話だが、このような話を聞くと、私は震え上がり、病院がとても恐ろしいものに思えてきた。病院でなくとも、日中はたくさんの人が出入りしているのに夜になると閑散として人っ子ひとりいなくなるようなところ、たとえば夜の学校などは、建物が新しくてきれいでも、やはり恐ろしい場所である。

この「恐怖」の源泉はどこにあるのだろうか。私の場合、年齢を加えるにつれて、以前ほど幽霊や妖怪は怖くなくなった。今でも一番怖いのは「闇」である。一寸先も見えないような漆黒の闇である。明るさに慣れた現代では、なかなか出会えない闇である。

趣味の昆虫採集で、夜行性の虫をさがすために森の中で夜中に一人だけという体験は何度かあったが、それは「えもいわれぬ」恐ろしさであった。昔の人が闇の中に百鬼夜行を想像した心理が少しはわかるような気になる。闇の中では人間の感覚は非常に鋭敏になり、いろいろな想像に頭の中が掻き乱されるからである。

さて、怖い物好きで怖がりの私が、美術館で一度開催してみたいと思ったのは、幽霊・妖怪画の展覧会であった。結論から言うと、これは実現しなかった。というのも、頭の中であれこれ考えているうちに、ほかの美術館で開催されてしまったからである。それは内容のかなり充実した展覧会であり、二番煎じはつまらないということで、企画は頭の中で立ち消えになった。とは言っても、いろいろと考えたり調べたりしたことが役立つことはあるだろうと思っていた。

やがて、その機会は到来した。一時、美術館から北海道立文学館に異動した時に「怪奇幻想文学館」という展覧会を企画開催することができたのである。ほぼ半年間の準備で開催にこぎつけたが、これが美術館の展覧会であれば、準備に3年はかかっただろうと思う。というのも、美術館は「実物の展示」が基本であるからだ。作品の出品交渉や実物の調査に非常に時間がかかるとともに、作品の借用、返却、保険その他にかかる煩瑣な事務手続きも多い。物量も大きいので必然的に予算も多くなる。予算や交渉の成り行きによっては出品をあきらめざるを得ない作品が出ることもある。これに比べると、文学館の展覧会は、資料(多くの場合書籍や書簡、自筆原稿など)の借用は、手持ち輸送か貴重品扱いの郵送で済む場合が多いし、展示は文学作品からの「部分引用」を活用すればよい。しかもこの展覧会に出品したい資料(書籍など)は、ほとんど道立文学館と私の手元にあった。煩瑣な事務が少ない分、もっとも大切な展覧会の内容に集中できるのである。ただし、ゴマンとある怪談の読書と整理には相当な時間がかかった。

ところで、展覧会の準備中、ある大切なことに気づいた。怪談と妖怪画、両者互いに深く関連するが、実は本質を異にするということである。

日本の場合、実在するとして恐れられていた妖怪や幽霊は、室町時代から江戸時代にかけて次第に絵画化され、キャラクター化していった。江戸時代に膨大な量が描かれたそれらの絵画の多くは、歌舞伎等の怪奇シーンをもとにした浮世絵と読本や黄表紙などの文学の挿絵であり、庶民はそれを怖がるよりも楽しんでいた。江戸時代後期には「コンニャクの幽霊」「豆腐小僧」などの出来立てホヤホヤの化物キャラクターまで登場した。画家にも庶民にも豊かな遊びの心があった。絵画の場合、リアルに恐ろしく描こうとすればするほど、化物の正体は丸見えとなり、真の恐怖から遠ざかるのである。一方、挿絵のない文章だけの文学の場合には、絵のように明瞭で具体的なイメージは登場しない。ある程度は読者の想像にゆだねられるので恐ろしさが煽られる。そして時には、幽霊も妖怪も怪物も登場しないのに、読者を心底戦慄させる作品がある。「えもいわれぬ」恐ろしさである。これこそ作者の手腕が問われる文学の真骨頂ということになるだろう。

 楽しんだり怖がったり、怪談に関わる絵画と文学は実に面白い。幽霊や妖怪は、多くの学者が研究対象として取り上げているように、芸術のみならず神話、宗教、民俗、歴史などの分野に関連する深く幅広い内容を持つ。なお、市立小樽文学館では、上記した「怪奇幻想文学館」の小樽特別ヴァージョンが開催される(8/49/7 会期は予定)。美術館で行われる現代作家との国際交流展「スウェーデン芸術祭」(7/21~9/16)とあわせて、ぜひご覧いただきたい。

新明 英仁

埋もれた画家

美術館の学芸員にとって、仕事の醍醐味といえるもののひとつに、埋もれた画家の再発見がある。むろん、西洋の名画や国宝級の美術品を展示紹介することも面白いが、誰も注目していない優れた作家を調べて世に送り出すことはそれにまさる楽しみがある。
つまり、当の学芸員だけがその魅力を知っていて、調べるうちに誰よりも詳しくなるという、マニアックな楽しみが味わえるわけである。
そう、世の中に知られていないのだから、調べた人が最も詳しいのは当たり前である。
しかし、普段から広くアンテナを張っていないと、そのような作家にめぐり合うことは困難である。仮に目に触れても作品の良さに気づかなければおしまいである。ともかく、そのような作家を見出すには、詳細な調査、経験と勘と情熱、それに良い作品を見る眼が重要だ。そして論文や展覧会で世に送り出すときは、自信と不安が相半ばする。学芸員としては、自分の眼が節穴ではないことを信じるしかない。
特に地方の都市などで活動している作家の中には、あまりにも身近な存在であるために、地元の人がかえってその才能に気づかないということもあるだろう。美術館学芸員が関わることによって再発見された代表的な北海道ゆかりの作家として、神田日勝(鹿追町)や深井克己(函館市)の例がある(以下カッコ内は主なゆかりの地)。これは北海道立近代美術館の学芸員の努力によるところが大きい。小樽市ゆかりの版画家一原有徳の異才も、神奈川県立近代美術館の館長をつとめた土方定一氏の積極的紹介によって全国的に知られるようになったことは、関係者の間で良く知られている。高坂和子(根室市)、佐藤進(旭川市)なども、美術館での積極的な紹介によって、ローカルな存在ではなくなった例である。
むろん、埋もれた作家の再発見は、いわゆる新発見報道とは異質のものである。既に作品は発表されているので、未知の動植物や化石ではない。何らかの理由で忘れられていたのである。その作家を見出したことに瞞着せず、調査を重ね、その作家の持つ真実の魅力を展覧会と論文で引き出し、広く再認識してもらうことが重要となる。
さて、以前からずっと気になっている秋田義一(旭川生まれ、生年不詳~1933没)という夭折の画家がいる。遺族は所在不明である。旭川の初期の画会を調べているときにその名は登場し、面白そうな作家だと思ったが、実際の作品を見る機会に恵まれなかった。上京して近代洋画の巨匠である萬鉄五郎主宰の円鳥会に所属したことがわかるし、二科会にも出品している。旭川で五人展(萬鉄五郎を含む)や個展を開催し、旭川新聞記者だった若き小熊秀雄がその展評を書いた。また、詩人の金子光晴・森美千代夫妻と上海で放浪生活をしていたことも金子の著書『どくろ杯』で詳細に述べられている。さらに、『芸術新潮』連載の「気まぐれ美術館」で洲之内徹氏が二回にわたって言及し、作品のカラー図版を掲載した。私は、旭川の美術を一冊の本にまとめる仕事を依頼されていたので、何とか執筆前にその作品を見たいと思い、所有しているという信州の某ホテルに電話を入れたところ、調べてくれたものの、該当作品は見つからないとのことであった。他のことにかまけているうちに年月が過ぎ、作品は所在不明となり、恥ずかしながら実物を調査する機会を逸したのである。探索はもはや「迷宮入り」かもしれない。
ところで、小樽にも埋もれた画家はいるだろうと思っていたら、船樹忠三郎(舟木忠三郎とも表記される、1891頃生~1951没)という気になる画家に出会った。現在、当館の一階で5点の作品が展示されている(2018年3月4日まで)。その名前は辛うじて知っていたが、作品を見るのは初めてである。今のところ大正13(1924)年以後は画家としての活動記録がなく、事情によって家業に多忙であったらしい。従って画家として活動したのは20代から30代にかけての十数年間ほどとなる。大正初年頃から上京して大下藤次郎主催の日本水彩画研究所に学んでおり、日本の水彩画を代表する一人である小山周次と交際があった。初期の二科会(1914年設立)に入選し、その作品は雑誌『みずゑ』に掲載されている。また、小樽の羊蹄画会や緑人社を通して工藤三郎、平澤貞通、木田金次郎、高田紅果など地元ゆかりの画家や文学者とも交流があった。5点の展示作品はいずれも小品だが、唯一の油彩画「家々の連なる風景」を見ると、上記した萬鉄五郎や岸田劉生らが大正元(1912)年から翌年にかけて結成・活動し、日本の近代美術に重要な影響を与えたフューザン会の影響を受けているのではないかと思われる。横長の画面に低い視点から野原と民家の家並みを描いた作品だが、明らかに後期印象派風であるだけでなく、萬鉄五郎などからの直接的影響があるように感じられる。この作品に律動する生命感は、船樹の明らかな才能を示している。他の水彩・素描も豊かな才能の片鱗が見られる。埋もれるには惜しいと思うので、ここで紹介したのである。遺された作品の数が非常に少ないことに加えて、大正時代の作品を新たに見つけ出すことも容易ではないだろう。しかし、今後は小樽ゆかりの重要な画家として復権させていきたいものである。

新明英仁

多様性

二十五年ほど前のことになるが、自宅を新築したとき、庭づくりで高さ2mほどのキハダの木を植えてもらった。落葉高木、ミカン科の樹木である。2~3年後、その木はほとんど枯れて、葉が出ているのは30cmほどの枝1本となった。何とか生きてもらいたいと思い、私なりに努力して強壮剤のような薬や肥料をまいてみたところ、徐々に回復して、その枝が伸び、枯れた幹よりも太く大きくなっていった。現在では高さが4mほどになり、剪定はしているものの青々と茂っている。
何を隠そう、この木は北海道ではアゲハチョウ科の主たる食草で、美しい揚羽蝶(ナミアゲハ)が次から次へと庭へやってきて、卵を生んだ。このナミアゲハという蝶は、本州ではたくさんいる。「ナミ」という名がついているくらい「並み」の蝶だ。しかし、北海道ではあまり見かけない。山へ行っても数多く見るのはこれに似たキアゲハだけである(キアゲハの食草はセリ科の植物)。その蝶が住宅街の我が家の庭にやってくる気分は悪くない。この木を植えたそもそもの目標がそれだったからである。初夏になると、大きな緑色の幼虫が葉についている。といっても木を枯らすほどたくさんいるわけでもない。庭には、多種の昆虫が好むミズナラやノリウツギも植えてある。虫好きの私としては大変幸せである。
昆虫は一塊の土くれや木屑、糞や小さな水溜りからも多数発生する。未発見を含め150万~200万種とも言われる昆虫の生態は非常に多様である。陸上のあらゆる環境に適応しているといってよい。『虫の惑星』(米の昆虫学者ハワード・エンサイン・エヴァンズ著)という名著があるが、人間中心から自然中心へ見方を変えるなら、なるほど地球は虫の星でもある。推計によれば、400㎡ほどの牧草地に1兆(!)の虫(節足動物を含む)がいるというのだから。
一方、われわれヒトは数千種の哺乳類の中の1種に過ぎない。しかし、実に多様なヒトがいる。その多様性も面白い。私のように虫好きなヒトも百人に一人くらいはいるだろう。美術のファンはどうか。それなりにいると思う。美術に関する職業、画家、彫刻家、デザイナー、教員、研究職、学芸員・・・・などに携わっているヒトはどうか。これも相当な数になる。しかしながら、その専門性や趣味の傾向によって、美術の中でもかなりの多様性がある。美術関係者としてひとまとめにされそうだが、実は個別に異なるのである。
ここから少しまじめな話。多様であるということは、ある人の考え方に全く関心がなく、接点がないという人も相当数いるということである。最近気になるのは、誰にでも役立つことや経済的に潤うことが優先されるという実利主義的、成果主義的な社会の傾向であり、それが多数派のように見えることである。むろん芸術文化などは蚊帳の外である。
役立つというと聞こえは良い。それは生きていくために大切なことではある。だが、そのような技術や施策は、多くの場合、悪用、誤用、事故、濫用の可能性もあるものである。我々は普段からそのような事例を嫌というほど見ている。歴史をさかのぼれば、その事例は膨大である。単純に「役立った」「成果が上がった」と考えるのは危険なのである。それは当面の結果だけを、数字的・統計的もしくは恣意的に見ているということであると思う。
人について考えるとき、文化の存在を無視することは出来ない。それが果てしなく実利を追求する欲望の抑止力となり、長い目で見て本当に役立つものを育てるのではないだろうか。これは技術や施策を用いる人たちの人格の良し悪しの問題では済まない。過去現在未来について深く考える想像力や洞察力が必要であり、それを育てるのは文化の大きな役割である。むろん、美術もその一分野であり、たとえば絵画的な思考方法は、人という知性的動物が文字を持つ遥か以前から育んできた多様な文化の根幹の一つである。仮に美術を愛する人が少数派であるとしても、それが社会に果たす役割は大きい。美術を含め、文化は多数決の世界ではない。多様性こそが大切である。そこには、少数の中に優れた価値あるものを見出し長い目で発展させていく力が潜んでいると思う。

ああ、また肩に力が入った。これでおしまい。

新明英仁

汽車の記憶

私は旭川の旧国鉄の官舎で育ったので、家の裏は少し行くと線路の土手だった。旭川駅に近かったので、線路は幾重にも分岐して広がっていた。

数十両編成の貨物列車が自宅の窓からすぐそこに見えた。何両編成か数えて楽しんだ記憶がある。むろん、汽車の通る音には慣れていて、騒音とは思わなかった。夜も眠ることができた。今でも電車に乗ればその音は眠りを誘う。

小学校時代、私は時々その線路の向こうに流れる忠別川まで遊びに行った。現在のように猛烈な速度で走る電車もなく、蒸気機関車はゆっくりと走っていた。周囲は駅の近くであるにもかかわらず、自然の宝庫だった。雑木林も河畔林もあった。小さな水溜りに小型のゲンゴロウが泳いでいた。朝、官舎の壁に大きなクワガタムシがとまっていた。美しいアカネトンボ(ミヤマアカネ)が飛んでいた。昆虫の採集に親しみ、穴が開くほど図鑑を睨んで種類を調べた。今でもその趣味が続いているのは、この体験から得たものである。

小学校高学年になって、それが変わった。函館本線の電化複線工事である。当時のことであるから自然を守ろうという意識は少なかったようである。忠別川は改修され掘り起こされ、河畔林はなくなった。身近だった自然が遠ざかった。それから半世紀後の現在の旭川駅裏は、緑化され、樹木が植えられ、自然を取り戻しつつあるが、それは何か、過去の償いであるかのように私には思われる。

さて、母の実家が札幌の石山だったこともあって、毎年のように家族に連れられて汽車に乗り、遊びに行った。その実家のそばを定山渓鉄道が走り、窓から山際を走る電車が見えた。現在は住宅街だが、当時は一面の田んぼで、たくさんの蛙を採って遊んだ。祖父母に連れられて汽車に乗ったこともあるが、札幌駅の手前の苗穂駅が広くて大きいので、札幌に着いたと勘違いしたことがあった。

それだから、子供の頃、古い札幌駅舎には何度も降り立った。その後は都市化・商業化され、今はその懐かしい景色のかけらも残っていない。現在開催中の大月源二展(~7/2)には、「春雪の札幌駅構内」(1966 個人蔵・当館寄託)という私が親しんだ50年前頃の札幌駅の様子を髣髴とさせる油彩画が出品されている。雪と汽車とホームと街並み。雪国の生活感が滲み出た佳品だ。

日本では、汽車や電車を取り込んだ絵画作品で一般に知られたものは少ない。あえてあげるなら池袋モンパルナスにもゆかりのある長谷川利行の作品であろう(鉄道博物館蔵・さいたま市)。一方、海外ならターナー「雨・蒸気・スピード-グレート・ウェスタン鉄道」、モネ「サン・ラザール駅」やデルヴォーのいくつかの作品が良く知られていてすぐに思い浮かぶ。ともかく鉄道にはそれなりに深い思い出のある私が石炭・海産物輸送の動脈であった旧手宮線横の美術館にJRで通勤するようになったのは、何かの縁であろうか。

とすれば、ひとつの夢として北海道と小樽市の鉄道にかかわる美術の展覧会を考えてみるのも悪くはなかろう。本州ではすでにいくつかの企画展が開催されているようだが、北国の特色を反映した内容の展覧会企画である。小樽市総合博物館では蒸気機関車に体験乗車することができるし、鉄道関係の常設展示が多数ある。視野を広げると文学にも面白い作品はたくさんあり、絵本にも鉄道は多く描かれている。博物館や文学館・図書館と連携することもできそうだ。問題は上記の大月源二のような北海道ならではの良い作品(絵画・写真・デザインなど)が現実に集まるのかどうか?これは手宮線を散歩しながら考えた夢のような話だが、展覧会はそれから始まることもあるから面白いのである。

新明 英仁

見るもの聴くもの

私は数十年来のクラシック音楽ファンである。私の育った旭川で演奏会が開かれるのは珍しかったから、少年時代はLPレコードを聴いていた。またFM放送も良く聴いていた。昭和40年代当時2,000円のレコードを買うと毎月の小遣いはなくなった。それでも小遣いは友人の中では多いほうだった。安価な装置で高価なLP一枚を何十回も繰り返して聴いていた。

ところがやがてCDの時代がやってくる。デジタル?・・・そんな意味のワカラナイものは聴くものかと思っていたが、時代の流れに呑まれ、CDを買い揃えるようになった。小遣いの過半はそれに費やした。何とか再生装置もそろえた。集めたLPを半分くらい売った。しかし、何かの本にはLPのほうが音は良いと書いてあったと記憶する。全盛のCD業界に遠慮して片隅にちょっとである。

そして最近、再びLPが見直されてきた。それまでCDの再生装置は安物を故障するまで使っていたが、一念発起して総入れ替えし、さらにアナロク(LP)プレーヤーや真空管アンプを買い足した。50代にしてオーディオという、未知の世界へ足を踏み入れることになった。

聴いてきたCDをすべて聴きなおしたいと思うほど、音が良くなった。低音の弦楽器やティンパニの音が底から鳴り響く。そして、古いLPを聴いてみてさらに驚く。楽器の音が優美である。解像度が高くなりオーケストラのすべての楽器の音が聞こえてくるようだ。多数のLPを売ってしまったことを少し後悔した。

ところで、音楽の場合、音の世界だからCDでもLPでも本物、もしくはそれに近い世界である。むろん、実演にはかなわないが、実演は日時と場所とプログラムに選択の余地があまりない。CDやLP再生の場合は自宅で自分の気に入った曲目・演奏を良い録音で繰り返し聴けるわけである。

だが、美術の場合はそうは行かない。実物との出会いはほとんどの場合、一期一会である。

画集や作品集は、教育・教養のためや鑑賞の記憶を呼び戻すのには大変有効だが、実物ではない。それでも絵画や版画ならば印刷物の平面に納まるが、彫刻などの立体となると印刷物では絶望的である(印刷技術と写真家の腕次第でかなり良いものは作れるのだが、それはそれで長くなるのでここでは書かない)。

一期一会といえば、最初のそれは新米学芸員の研修を兼ねたフランス旅行でやって来た。30年以上前である。

言わずと知れたルーブルである。これは何と言っても王道である。

盛期ルネサンスの部屋に入ったとき、芸術の神様が降りてきた。巨匠たちの絵画の恐るべき重みと輝き・・・感じたものは、永遠の時間、何時間そこにいても飽くことのない美の世界・・・私はそれに完全に打ちのめされた。

美術館の学芸員をしていながら出不精であった私は、初めて実物を鑑賞することの本当の意味を体感したのである。何と遅い体験だったことだろう。私の育った当時は北海道に美術館などほとんどなかったから、訪問する機会も習慣も持たずに画集をながめていたのであった。

その後、何度かこのような体験をした。感動した対象は古今東西絵画彫刻工芸いろいろあるが、比較的まれな出来事ではあった。仕事の合間を縫って美術館や画廊に見に行く時間などほとんど取れない。通常の仕事では自分の勤務している美術館の所蔵品か特別展の出品作を除くと、印刷物の図版を参考にすることのほうが圧倒的に多い。期待すると実物を見てがっかりすることもある。だが、なるべく多数の作品を見る努力は必要だ。

いずれにしても、研究や展覧会、作品の収集のためには、ほぼすべての関連作品を事前に実際に見て調査する必要があり、そのための調査に時間とお金がかかるのである。この場合、作品の品定めをすることができる「眼」が何よりも重要となる。苦労して時間をかけて調査し、研究し、展覧会を企画実現したとき、それらの作品は自分の人生にとってもかけがえのない一期一会の記憶となって残るのである。

何となく、趣味から仕事の話になって肩に力が入ったようである。今回はこれにて。

新明 英仁

まつり

P1100679「潮祭り」が終わってしばらく経つが、今年、新米館長として団扇絵コンテストの審査委員長を仰せつかり、表彰式と講評にも参加した。来年の潮祭りの団扇デザインを決める大事なコンテストである。市内の中学1年生の作品がグランプリに輝いた。出かけると、会場は祭り一色で、多数の観光客も加わり、大混雑。仕事を終えてから夕方の表彰式に出席した私は、周囲の人々の浴衣姿、法被姿の中で、一人背広の上着を着ている有様で、大変浮いた存在だった。こりゃあ来年は、せめて団扇くらいは持っていくようにしよう。

 

ところで、祭りといえば、懐かしい思い出がある。

もう40年ほど前の学生時代の夏、ゼミの合宿のあと、友人たちと一緒に仙台から青森まで行ったことがある。青函トンネルも東北新幹線もない頃である。青森駅に着いたのは8月初旬、ねぶた祭りの始まる日の午後であった。晴れた日でかなり暑い。それとともに、なんとなくモウモウとしたお祭前の気分が町を包みこんでいる。青森の街中に住む友人の家へ寄せてもらってわれわれは少し仮眠した。友人たちは祭りで跳ねて(踊って)いくという。しかし私は、夕方の青函連絡船に乗って北海道へ帰らなくてはならない。

すると女友達の一人が、私を連絡船乗り場まで送ろうと言ってくれた。

町に出ると夕刻が迫り、本通の脇筋にはこれから繰り出すねぶたが準備されている。刻々と祭りの本番が迫りつつある。その友人は、私と一緒に連絡船に乗りこんでしまうのではないかと思うほど、船の近くまで会話しながら送ってくれた。そして陽が大きく傾く。彼女は私の恋人でもなんでもないのだが、後ろ髪を引かれるような気分で別れを告げて連絡船に乗り込んだ。

その直前に夕日が沈んだ。

 

ただ、これだけの思い出である。私を送った女性がその何年か後に心臓の病気で若い命を落としたこともあり、このありきたりな出来事がねぶたの濃厚な熱気と重なって繰り返し繰り返し思い出される。この友人たちに今再び会えたら、どんなにうれしいことだろう。その時その場所に戻ることができたならば、惜しむものなど何もない。

 

祭りは本番のときも良いが、始まる前の期待感、そして終わった後の余韻も良い。当館の「まつり写真展」(9月18日まで開催)を見ながら、そう思った。

新明 英仁

木版画の話

最初にご挨拶申し上げます。この4月から館長をつとめることになりました新明英仁(しんみょう ひでひと)と申します。道立近代美術館、道立旭川美術館、道立文学館で36年間にわたり、学芸員として日本の近現代美術の研究や作品の収集、展覧会の企画などの仕事をしてまいりました。どうぞよろしくお願いいたします。

今後、この欄では、さまざまな芸術文化に関する話題を取り上げていきたいと思っております。

 

今回は、当館で開催中の「木版の夢」展(7月3日まで)に関連して、木版画の話です。

誰もが小中学校時代に学ぶ技法ですが、この歴史は日本でも相当古い時代にさかのぼります。中国から伝来した当初は、経文(お経)を摺った文字だけのものであったようです。絵としては、さまざまな仏様の姿を摺った「摺仏」(すりぼとけ)が平安時代には作られていました。版木に紙を当てて摺る単純な白黒の木版です。これは仏像の内部に納めたり、社寺の門前で信者に売られたりしたものです。たくさん仏様の姿をつくればそれだけ功徳(くどく)も積めるということもあって流行します。もっと簡単に木版をハンコのように使う「印仏」(いんぶつ)というのもありました。やがて木版の上に美しく手彩色した仏様の画像も作られるようになりました。

江戸時代に入って、庶民階級が台頭してくると、木版は大きく変化していきます。

家庭や寺子屋での教育のために使われた「庭訓往来」(ていきんおうらい)や初期の物語本には絵入りのものが多数ありました。これは、つまり現代でいうところの「印刷」に当たるものです。しかし、浮世絵が登場すると、木版の芸術的な価値は一挙に高まります。鈴木春信に始まる多色摺木版画(錦絵 にしきえ)の発展により、版元(出版者 シリーズものなどの出版を企画する)、絵師(画家 下絵を描く、色指定する)、彫師(ほりし 版木を彫る)、摺師(すりし 和紙に摺る)の分業によって大衆のための浮世絵が大量に生み出されました。また、江戸時代後期には、大衆の読み物である黄表紙(きびょうし)、合巻(ごうかん)、読本(よみほん)も普及し、その挿絵は葛飾北斎や歌川国貞など一流の浮世絵師たちによる創意に富んだものとなったのでした。これらの木版画は、当時の大衆にとっては、現在の写真集や雑誌、大衆小説のような印刷物でしたが、現在の私たちから見れば、芸術性豊かな美術品といえるものです。

この浮世絵の伝統は幕末から明治に入っても続きました。しかし、明治末期になって、浮世絵のような分業による量産ではなく、自らの芸術的創作意欲にのっとって、自分で下絵を描き、自分で版木を彫って、自分で摺る、というように、すべて一人で木版画を制作する「創作版画」の試みが盛んになり、現在ではそれが銅版画など他の技法も含む「版画」と呼ばれる美術のジャンルに含まれたものとなっています。当然のことながら、数多くのすぐれた作家たちによって木版画ならではの表現や技法の研究も進み、多彩な表現が生み出されてきました。

さて、そこで登場するのが今回の展覧会にも出品されている棟方志功(むなかたしこう 1903~1975)です。小樽の版画家たちに大きな影響を与えています。彼は、戦後に数々の国際展で受賞し、日本の木版画のすばらしさを世界に広めた国際的作家になりましたが、昭和4年に初めて小樽に来たときはまだ20代の若さでした。招いたのは美術教師の成田玉泉(なりたぎょくせん)で、当時小樽在住の斎藤清や未だ中学生だった河野薫(かわのかおる)、金子誠治に棟方を紹介しました。斎藤清は棟方と交流を深め、昭和13年には金子誠治らとともに小樽創作版画協会を創立しました。河野薫も棟方の激励を受け、木版画の道を歩みました。

今回の展覧会では、これら5人の小樽ゆかりの木版画家を紹介しています。ご覧いただければ、各作家の個性と木版画の表現の面白さに必ずや惹かれることでしょう。P1100410

最後に、木版画の魅力とは何でしょうか?棟方志功はそれについてさまざまなことを著書で述べていますが、その中で、仏教の感化を受けて自分は「他力」で作品の制作を行うと語っています。この「他力」という言葉は「偶然のなせるもの」「意図しないでできるもの」などと置き換えてもいいでしょう。つまり、下絵を裏返して板に貼り、彫刻刀で彫り、絵の具を塗って摺るという間接的な作業を重ねることにより、下絵をはみ出したり、単純化されたり、木目が出たり、摺りの濃淡やかすれが出たり、思いがけない表現が作品に生み出されるということです。むろん、その効果を予測し、応用することもできるでしょう。それでも偶然は起きます。その繰り返しによって、作品の世界が広がり、味わいと深みが出るということなのです。この長い歴史と奥深い味わいを持つ木版画について、ぜひ多くの方々に関心を寄せていただければと思います。

                                 新明 英仁

 

美術のなかの“生きものたち”

― 人は地球上のあらゆる生きものと共生し、その関係は古くから絵画、彫刻、工芸などさまざまなジャンルの美術に表現されてきました。美術家にとって「命あるもの」は重要なインスピレーションの源であり続けています。

飼い犬や飼い猫、小鳥などの小動物は、人の親しい友であり、大切な家族の一員として、美術家たちの制作の題材になり、古くから人々の生活や労働にかかわってきた馬、牛などの動物たちもまた、生活風俗のテーマで表現されることの多い生きものです。

一方、そうした日常から離れて、人間が住むことのできない海の中の生物や、現実には存在しない想像上の幻獣を生みだして描いた作品もあります。美術作品には、生きものへの愛情が込められているだけではなく、ときに声高ではないけれども風刺を込めた擬人化や、社会への批判を込めて表現される場合もあるでしょう。―(企画展パンフレットより)

P1100123 今回の企画展「美術のなかの“生きものたち”」(~4月17日)は上記の主題をコンセプトに、北海道ゆかりの美術家を中心に、油絵、版画、彫刻、絵本の原画などにあらわれた生きものたちを題材とした作品を選びだしました。出品作家は故人がほとんどですが、上野山清貢、浦久保義信、小川原脩、かつやかおり、金子誠治、河野薫、国松登、小寺健吉、小島真佐吉、渋谷政雄、須田三代治、高森捷三、竹部武一、手島圭三郎、鳥居敏文、中野五一、中村善策、藤本俊子、水谷のぼる、宮川魏、横川清次の21人で、当館2階展示室に合わせて42点の作品群を展示している。

多用な表現スタイルと作例により、生きものたちに託された作者の思いを感じていただければ幸いです。また、市立小樽美術館に収蔵された新しい作品や意外なコレクションを知っていただく機会でもあります。

一方、1階の中村善策記念ホールでは「小樽洋画研究所と中村善策」をテーマに大正期から昭和初期の小樽画壇を形成した先人の三浦鮮治、兼平英示、工藤三郎、山崎省三、谷吉二郎、加藤悦郎、大月源二ら中村善策の仲間たちの作品13点と中村作品12点(いずれも当館コレクション)を展示している。

また、3階の一原有徳記念ホールでは「幻視者 一原有徳の世界7」のタイトルのもとに、一原を美術の世界に導いた須田三代治の作品9点と一原有徳の作品26点(いずれも当館収蔵品)を展示している。記念ホールの展覧会期は7月3日まで。

 

私事になりますが、小生は2006年4月に当館館長に委嘱されましたが、今年で満10年となり、退任を決意しました。長い間お世話になりました。お力添え頂いた皆さまに心より感謝申し上げます。

佐藤敬爾

小樽運河・いまむかし

 みなと小樽のシンボルでもある小樽運河は長年、美術作家たちの格好のモチーフとなってきた。小樽に生まれ、運河に親しんで育った出身画家はとりわけ生き生きした作品を残し「運河画家」の異名で呼ばれる画家もいました。今回の特別展「小樽運河・いまむかし」展(~7月5日)は、文字どおり、この運河を見つめてきた作家たちの作品を網羅し、当美術館1、2階ホールを会場に「追想の小樽運河」「小樽運河への思い−藤森茂男」「小樽運河のいま」の3部構成とし、さらに特別陳列として小樽運河の埋め立てに反対して全国的運動にまで発展させた商業デザイナー藤森茂男に的を絞った「運河保存運動の父 藤森茂男」のコーナーを設けた。
 出品作は合わせて60点に上るが、藤森作品を除き、いずれも当館収蔵の油彩、水彩、版画作品。出品作家は石塚常男、伊藤正、金子誠治、、兼平英示、金丸直衛、木嶋良治、小平るり子、小竹義夫、小林剛、佐藤善勇、白江正夫、鈴木儀市、鈴木傳、角江重一、千葉七郎、冨澤謙、中村善策、羽山雅愉、古屋五男、宮川魏、森田正世史、山田義夫、大和屋巌、渡辺祐一郎(五十音順)と藤森茂男の25人。うち、現役作家は冨澤謙、小平るり子、木島良治、羽山雅愉の4人で、残りはいずれも故人である。
 大正末期から昭和初期の戦前末期まで商都小樽の隆盛期を築いた小樽運河は、明治末期から大正期にかけて、港湾施設を運河方式にするか、埠頭方式にするかの論争も経て18年の年月をかけ、大正12(1923)年に完成した年代ものである。運河と石造倉庫群、艀など港湾設備を整えた小樽は石炭などの鉱物資源や農林水産物、生活用品の一大集散基地として隆盛期を実現、色内、手宮、堺、有幌、入船、築港地区に金融街、問屋街、倉庫群を形成、日本銀行小樽支店を構えた色内周辺は「北のウォール街」とまで称される繁栄を誇った。
keiji-unga しかし、戦後の時代の変化とともに物流形態の激変が起こり、商都小樽に”斜陽”が訪れる。高速道路を含む道路網の進展、海運業の変化とともに小樽運河の経済活動に占める役割は終え、臨港道路建設のため運河埋め立てと倉庫群の解体計画が登場したのが昭和40年代。そこに「小樽運河と石造倉庫群は小樽の歴史を物語る遺産だ。その景観は小樽の文化財」と訴えて「小樽運河を守る会」を立ち上げ、保存運動に火をつけたのが藤森茂男だった。「全面保存」か「半分保存」かの論争は「半分保存」でピリオドを打ち、今日に至るのだが、埋め立て整備からほぼ30年を経た現在の運河周辺は”観光資源”と姿を変えて「小樽の文化遺産」として画家たちのモチーフとなっている。

 

追記:小樽運河の保存運動の歴史については昭和61(1986)年に刊行された大書「小樽運河保存の運動」(B5判、歴史編533頁、資料編412頁)がある。当時の藤女子大学、小笠原克教授の編著になる。

 

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