市立小樽美術館 市立小樽美術館協力会

KANCHOの部屋

「新任のごあいさつ」

 この4月から新明英仁前館長の後を受けて館長に就任した苫名真(とまなまこと)と申します。ごあいさつが遅くなり、誠に申し訳ありません。

まずは簡単に自己紹介をさせていただきます。苫名という苗字が珍しく、「苫小牧の苫です」と説明するたびに「北海道らしい名前ですね」と皆さん納得されるのですが、出身は滋賀県です。新明前館長とは東北大学文学部の先輩後輩で、前館長は東洋・日本美術史専攻でしたが、私は美学・西洋美術史を学びました。卒業後は道立近代美術館の学芸員となり、三岸好太郎美術館、帯広美術館、釧路芸術館勤務を経て、今年3月、近代美術館の学芸副館長を最後に定年退職したところです。

近代美術館では主にガラス工芸を担当していました。おかげで、今はない運河工芸館で現代ガラス展を開いたり、市内の工房をたびたび訪れたりと、ガラスを通して小樽の街とは浅からぬご縁ができました。

小樽美術館については、かねがねその地域に根差した誠実な活動ぶりに感服していました。小樽の美術を丹念に調査し、作家や美術運動をきちんと評価したうえで、展覧会や作品収集という形で顕彰し、市民の皆さんに伝えていく。40年を超す積み重ねは小樽のみならず、北海道の美術史にとっても貴重な財産となっています。

なぜこのような充実した活動が可能なのか不思議に思っていましたが、実際に着任してみて初めて得心がいきました。小樽美術館には陰になり日向になり、その運営を支えようとする地域の人々の存在があったのです。自分たちこそが商都小樽の文化的伝統を守り、次代に引き継いでいくのだという協力会の皆さんの「誇りと心意気」をひしひしと感じています。

大変心強くありがたく思うと同時に、それだけにいい加減なことでは許されないぞと責任の重さを痛感しています。微力ながら学芸員としてのこれまでの経験を活かし、誠心誠意小樽美術館の発展に取り組む所存ですので、どうぞよろしくお願い申し上げます。

苫名 真

埋もれた画家の消息

4年ほど前、私はこの欄(kanchoの部屋6)で若くして亡くなった秋田義一ぎいち(1897前後~1933)という大正から昭和初期の無名の画家について書いた。彼は旭川市生まれで、旭川の初期画壇や小熊秀雄と関係があり、詩人の金子光晴・森美千代夫妻とともに上海で放浪生活を送ったこともある油彩画家である。

日本近代洋画の最も重要な作家のひとりである萬鉄五郎(1885~1927)は、秋田の才能を買っていたようである。その名前は岸田劉生の日記の中にも「秋田」と、ひとこと言及されている(『摘録 劉生日記』 岩波文庫 1998)。この本には「秋田」の語に注釈がついていないが、前後の文脈から見て、これは彼のことだとわかる。なお、『芸術新潮』に洲之内徹が連載した「きまぐれ美術館」には、秋田のことを書いた記事が二つある(1984年6月および同年12月)。6月の記事では画家の原精一に取材して秋田のことを聞いた記事が載っていて、これも萬が秋田の力を認めていた傍証となる内容である。さらに12月の記事では秋田の3点の作品が掲載されているにもかかわらず、所蔵先への問い合わせによる私の調査(2013年ころ)では実物の消息は不明であった。

ところが、ある日突然、このブログの文を読んだ関東地方在住の方からお手紙をいただいた。秋田義一の作品を所有していらっしゃるというのである(!)。作品の写真も同封してある。私は飛び上がって、その方にお礼の手紙を書いた。世の中には無名の作家に再び生命を与えるような、このようなすばらしいコレクターがいらっしゃるのである。この方は「秋田義一」で検索して、私のブログの記事を知ったそうである。まさにネット社会の恩恵であり、少し以前なら、こんなことは起きるはずもなかった。むろん当欄を設けていただいている市立小樽美術館協力会にも感謝しなくてはならない。
私は、少々悩んだ末、お礼だけではなく、思い切って、図々しくも厚かましくも、作品を譲っていただけないかと相談することにした。これは秋田の作品を収集する最初で最後の機会かもしれない。秋田の作品を発見し、展示することは私の長年の研究に沿うことになるからである。そのコレクターの方は、この作品にはキュビスムの影響があり、それは大正時代の洋画では珍しいと思い画商から購入したということで、まさに慧眼であった。
私の目論見は、それを入手したら、すぐさま道立旭川美術館に寄贈しようということであった。この作品が展示されるのに最もふさわしいところである。日本の文化行政の恐ろしく貧困な現状では、購入予算は少ないか全くない公立美術館が多い。旭川美術館に作品の情報を提供しても、なかなか購入できないうちにたちまち数年がたってしまうことが予想できる。その間に散逸する可能性もある。それならば、その現存する希少な1点をすぐに収蔵してもらう確実な手段は、自分で入手して寄贈の意志を示し、同館の収蔵委員会に諮ってもらうことである。私は道立旭川美術館で学芸員を長年勤めたが、今は道職員ではないので、問題なく寄贈できるのである。
先方に以上のような意志を伝え、価格を交渉したところ、全く不躾としか言いようのない話にもかかわらず、快く趣旨を理解してくださって交渉は成立、作品は私の手元に送られてきた。手放していただいた所蔵者の方には感謝の言葉しかない。そして数か月後には収蔵委員会を経て旭川美術館の所蔵品となった。秋田義一作「風景」(1922年、油彩・キャンバス、45.5×52.7cm)、それは西欧の前衛絵画を受け入れたフュウザン会、そして萬鉄五郎からの影響がうかがえる一作である(図版は「北海道立美術館等所蔵作品データベース」の〈作家一覧〉から検索可能です)。
これは自己満足に過ぎないが、私は充足した気持ちになった。自分の調査と研究が、偶然とはいえこの良い結果を生んだこと、そして古巣の美術館に大事な作品を寄贈する形で、恩を返せたのではないかと思ったからである。
後日、私は旭川美術館に解説者として招かれ、この作品をはじめとして所蔵品展に出展された初期旭川画壇の作品の数々について詳細に解説した。今後、この若くして亡くなった画家の短い生涯にも少しは光が当たることを願うものである。

ところで、この話には続きがある。先日、旭川美術館に立ち寄った時、『トスキアナ』第17号(皓星社 2013年6月)、18号(同 11月)に掲載されている手塚登士雄氏の「謎の画家 秋田義一について」および「続・謎の画家 秋田義一について」という資料(コピー)を初めて見る機会を得た。そこには秋田が、魯迅や富永太郎ともつながりがあることなど、特に文学関連について私の全く知らなかった事実が書かれていた。また『純正美術』という秋田が関係した雑誌についても貴重な情報があった。おそらく、この原稿と拙著『旭川の画家たち』(旭川叢書第35巻 旭川振興公社 2015年)に書いた美術関連の出品歴を合わせると、秋田義一の全体像が少しだけ充実しそうである。ということで、作品を寄贈して一仕事終えたつもりでいたが、秋田との関係はこの先まだ続くかもしれないのである。この正体不明の作家の名前を知ってから35年以上にもなろうというのに・・・他のことにかまけて十分調査しなかった報いだが、それも一興である。

                                                   新明 英仁

追記:筆者は令和4年の3月末をもって、市立小樽美術館長を退任いたします。持病の腰痛で旭川の自宅から週2日往復する長時間通勤が困難なことが要因です。完全に引退生活に入るのではなく、今後も大学の講師と美術の関する研究や文化的な活動は続ける予定です。むろん音楽鑑賞や読書、昆虫採集、旅行など趣味の時間を大幅に増やして人生を満喫するつもりです。小樽にも時折は足を運びたいと思います。美術館協力会の皆様には6年間の在任中大変お世話になりました。また、当欄をお読みいただいた皆様、有難うございました。心より深くお礼申し上げます。

禍中閑話(4) 読書

旅行するときには、必ず1~2冊の本を鞄に入れていく。旅行できないときは、本の中で旅を楽しむ。時には夢の中でも。

汽車に乗りながら本を読むのはいちばん楽しい。それから、眠くなるまでベッドで読むのも良い。主に文学(小説、詩、随筆)が中心である。週二回、旭川と小樽を日帰り往復通勤するので、汽車の中での読書は進む。寝る前に読む本は、ほかにある。日中気が向いて読む本も別のことが多い。

つまり、常に2・3冊の読みかけの本がある。老化した頭で内容が混乱しないように傾向が別なものを選ぶことにしている。ひとつは日本の古典文学、これはベッドでゆったりと読むのがよい。休みの日中に読むのも良い。二つ目は、日本近代の小説など、これは汽車の中で読むのがよい。三つめは翻訳文学、これも寝る前が多い。

ここ数年間の読書の成果?といえば、プルーストの『失われた時を求めて』を読破したことである。私が読んだのは井上究一郎個人訳の世界文学大系版(筑摩書房)で、分厚い5冊の本、それは学生時代に一度挫折して、40年以上本棚に置いてあったものである。この小説はストーリーがあるようなないような、どこから読み始めても読めるような、読みだすとある程度読んでしまうような、不思議な本である。ゆっくりと約10か月かけて読み終えたが、読後感というと、この偉大な文学の前では、すべての言葉が沈黙してしまうのではないか、すべての小説家を目指す人が意気阻喪するのではないか、と思われるほどであった。満足度は非常に高く、自分の精神構造が少し変わったのではないかとまで思えるほどである。実際に、時間、記憶、人間の本質などに関する洞察が深まったような気がしたのである。

 寝る前に読破した長編をもう一つ、アリオストの『狂乱のオルランド』(脇功訳、名古屋大学出版会)、このイタリア・ルネサンスの掉尾を飾る叙事詩は、予てから読みたいと思っていた。というのは、これに関連した歌劇をいくつも聴いていたからである。ヘンデル「アルチーナ」「オルランド」、ヴィヴァルディ「狂人を装うオルランド」「怒れるオルランド」、ハイドン「騎士オルランド」などで、いずれも名作ぞろいである。特に、ヘンデルの2作は魔法オペラとして名高い。またヴィヴァルディの膨大な器楽や声楽の秀作群を知れば、その中の「四季」はそれなりに良い一曲にすぎないという認識もできる。ハイドンの歌劇はそれほど知られていないが、充実し生気に富んだ音楽は、天才の証である。長期にわたって文化芸術に大きな影響を与えたのがアリオストだったのである。ということで、音楽好きとしてはぜひ読んでおきたい叙事詩だった。

ストーリーは波乱万丈であるが、中世のキリスト教側から見たキリスト教徒とイスラム教徒との戦いを主題としている。登場人物はオルランド(「ロランの歌」のロランと同一人物)、ルッジェーロ、リナルド、アストルフォ、タンクレディ、ブラダマンテ(女性)らの英雄たち、美女アンジェリカ、魔女アルチーナ、異教徒側の戦士アグラマンテ、クロリンダ(女性)など多士済々。オルランドとともに物語の主人公であるルッジェーロは天を駆けるヒッポグリフにまたがり、海の怪物の生贄とされた美女アンジェリカの危機を救うのである。これは絵画の主題としても好まれたもので(アングルの作品が有名、ルドンやベックリンも描いた)、ギリシア神話のアンドロメダを救うペルセウスと天馬ペガサスに祖型があるのは言うまでもない。

一転して、日本の古典文学では『落窪物語』を読んだが、これは日本版のシンデレラ(灰かぶり姫)物語とされている。大長編の『源氏物語』に先行する作品らしいが、『源氏』よりは読みやすく、ストーリーもわかりやすく、話の長さも中編程度である。東西共通と言えば、『古事記』のスサノオノミコトがヤマタノオロチを退治してクシナダヒメを救うのも、英雄が間一髪美女を救うというパターンで、ギリシア神話やオルランドと根源は同じだろう。

ということで、芸術は互いに影響を与えるだけではなく、歴史や神話と深く関連し、さまざまな人間共通の思考にも結び付く。結果的に、人間とは何か、という根源的な疑問への回答に軟着陸することだってあると思う。上記のことは、いろんな解説本にも書かれていることだが、実際に読んだり見たり聴いて追体験することによって、単なる知識ではなく自分の脳の滋養とすることができる。この年になってもそれができることが幸せであり楽しみなのである。

 

新明 英仁

 

禍中閑話(3) 耳も節穴 目も節穴 「作曲家とアニヴァーサリー」

 節穴放談の続きである。

 ウォルフガング・アマデウス・モーツァルト(17561791)は最も好きな作曲家である。私はその音楽を、十代前半の若い頃から、指揮者のカール・ベーム、アマデウス弦楽四重奏団、ピアノのバックハウス、ギーゼキング、内田光子、歌手のプライ、シュライヤー、シュワルツコップ、マティス、ルートヴィヒなどの演奏で親しんできた。その後、古楽器演奏が盛んになって、アーノンクールやホグウッドなどの演奏も聴いたが、結局は頭に刷り込まれたベームらの演奏に戻った。そして現在は古楽器も現代楽器も入り混じって多彩な演奏が生み出されている(アバドとアルゲリッチのピアノ協奏曲、シュタイアーのピアノ・ソナタなどは素晴らしい)のだが、聴いた限りでは、モーツァルトの音楽が包み込んでいる秘石の輝きに届く演奏は多くはないようである。もちろん良い演奏は多数存在し、好みの問題もあるから一概には言えない。それに幅広い演奏解釈を受け入れるのが名曲の器(うつわ)というものだろう。

 ということなので、ここでは演奏の個人的趣味を語ることにする。ベームの演奏の良さをいうなら、落ち着いたリズム感と率直で衒いのない表現ということになり、個性も味付けもない感じがするが、実はそれがモーツァルトの音楽そのものが持つ劇的な味わいや遊びの精神を、充実した響きでストレートに伝える独自の演奏となっているのが不思議である。厳しい練習でも知られた彼の指揮は歌劇でも管弦楽曲でもモーツァルトの音楽の特性を強調せずに自然に引き出している。音楽は引き締まり、深みと豊かさを湛えた響きと旋律が湧き上がる。このような指揮者は稀だと思う。

 ところで、モーツァルトの全800曲(ザスロー他編『モーツァルト全作品事典』2006)とされる作品のうち、少なくとも半数は名曲であり傑作だと思っている。耳が節穴の私が言うのだからアテにはならないが・・・これだけを繰り返し聞いていても一生飽きないだろうという数である。もう一人の天才、J・ハイドンを別格とすれば、同時代の作曲家たちが束になっても及ばないレベルではないか?

この18世紀後半の古典派の時代、交響曲(シンフォニア)や協奏曲、舞曲、室内楽、各種楽器のソナタ、そして歌劇やコンサート・アリア、歌曲、ミサ曲、モテットなどは星の数ほども作曲されていた。一人の作曲家が各ジャンルで数十曲作曲するのは当たり前のことだった。モーツァルトは多作だがそれは彼だけではなかった。ヨーロッパ各国の朝廷や貴族、そして教会に仕えた多数の演奏家兼作曲家によって新作が次々と作曲され披露されていた。量産ぶりは現代のポピュラー音楽と同じである。今日では演奏されない楽譜は膨大で、各国の図書館などに眠っている。モーツァルトと生前交流があったり、影響を受けたりしていた同時代の作曲家(別格のJ・ハイドンを除く)では、JC・バッハ(JS・バッハの息子、末子)、M・ハイドン(J・ハイドンの弟)、ミスリヴィチェク、ヴァンハル、カンナビヒ、サリエリなどである。また、モーツァルトと時代の重なる人々としては上記のほかにもボッケリーニ、グルック、チマローザ、ケルビーニなどの大物から群小作曲家までド素人の私が名を知っているだけでも相当な数になる。これは秘曲探しの趣味として手ごたえ十分なのでCDLPを収集中である。似たようなプログラムの多い日本の演奏会では全くと言っていいほど取り上げられない佳曲が多数ある。なんともったいないことか。名曲と秘曲を組み合わせた演奏会をもっともっと増やすべきではなかろうか?

さて、昨年(2020年)は、ベートーヴェン(1770~1827)の生誕250年であった。コンサートなどは世界的に制約される状況が続いているが、CDなど音楽産業のほうは活況であった。ベートーヴェンは、聴けば感銘するけれども、それほど好きな作曲家ではないので静観していたが、たくさんの交響曲全集などが発売されたようである。こうしたアニヴァーサリーの準備は数年前、時には10年以上前から取りかかるようだ。美術館の展覧会でも大掛かりなものは5年以上の準備期間を要するが、作曲家の場合、例えばJS・バッハ(1685~1750)の200曲を超えるカンタータ、J・ハイドン(1732~1809)の106曲の交響曲などは、相当の時間をかけて地道に演奏を練り上げ録音していくしかない。生誕300年の2032年に向けて録音が始まったハイドンの交響曲全集プロジェクトは私も購入し続けているが、およそ15年がかりの構想である。まあ、何と気の長い話か。というより全集完成時に私は生きているだろうか?・・・できれば生きていたいものだ。欲を出すとモーツァルトの没後250年の2041年も可能だろうか。過去にはモーツァルト全集もいくつか出たが・・・生誕300年の2056年はとても無理だろう。生きていれば私は101歳である。

こんな愚にもつかぬことを考えているうちにどんどん時間は過ぎ、引きこもりの退屈もまぎれるのである。

新明 英仁

禍中閑話(2)耳も節穴 目も節穴

 私の場合、仕事でも趣味でも、芸術文化に対していろいろなものに目や耳を研ぎ澄ませてきたつもりだが、あくまでもそれは「つもり」であって、見落とし、聴き落とし、読み落としが膨大な数になっていると感じている。過去の芸術作品は膨大で物量的に太刀打ちできない。それをカバーしようとしても、ただ数を「こなす」だけでは魅力に気づくこともむずかしい。鑑賞の質が大切なのである。年を取って、以前よりは少し精神的余裕と冷静さを持つようになると(これは自己診断なので心もとないが)、若いころから多数の関心を持つべきもの、感動すべきものを見落としてきたことに気づくようになった。まあ、これは鼬ごっこで、もっと年を取れば、現在も見逃しているものに気づくのだろう。

 仕事で疲れきって展覧会を見ても、作品に対して能動的な反応をすることは難しい。眠いのに本を読もうとするのと同じである。音楽だけはBGMのようにしておくこともできなくはないが、やはり疲れていれば脳は反応しない。心身ともに元気という状態は若い頃から持続せず、幻想と妄想と眠気にとらわれて注意力散漫な状態が続いた。学校生活や社会生活そして恋愛はとても大変で疲れるのである。と言っても、複雑な現代社会であれば誰しも同じなので弁解の余地はない。やはり、私の脳みそに大きな節穴があったのだ。

 節穴が良いこともある。霧のようにかすんでよく見えなかったもの、疲れて余裕がなく感じ取ることができなかったものが、大げさに言えば突然、啓示のように焦点が合ってはっきり見える、ということがたまにあるからである。この時の新鮮な感動は他人には語りつくせないものがある。知らないこと、気づいていないことが多ければ多いほど、この感動の確率は上がる(?)かもしれない。そして、まだ自分が成長していると錯覚し、自己満足できる。

 最近頭の中で焦点が合った体験と言えば、少し前にこの欄でも書いたが(6 埋もれた画家)、小樽ゆかりの船樹忠三郎という無名の作家である。自分の勤める美術館で、その小さな作品のみせる才能のきらめきに突如として焦点が合ったのだ。惜しむらくは、中途で画業を断念しなくてはならぬ事情があったことと、現存作品がきわめて少ないことだ。

もうひとつは諏訪湖旅行で訪ねた茅野市尖石縄文考古館の「縄文のヴィーナス」(土偶)である。同館には「仮面の女神」(土偶)もあり、どちらも国宝である。「縄文のヴィーナス」は図版では知っていたが、寸法(高さ27cm)以上に大きくたくましく感じられる妊婦の像である。前から見ても横から見ても面白い。この豊かな量感表現はどんな彫刻家にも真似できないような原初的な力がある。

そして裏側に回って驚いた。普通、ウラは図版では見られない。

頭にかぶっている帽子らしきものの上部がスパッと平たく切り取られたような形で、そこに大きく渦巻き型の模様がはっきりと形作られている。これは当時の帽子のリアルな描写なのか、それとも妊婦や出産を象徴する記号なのかよくわからない。勝手に解釈すると、これは出産間近の妊婦をあらわす記号ではないかとも思う。というのはこの渦巻き、グルグル模様は他の妊婦を扱った土偶でも、もっとあいまいな形ではあるが見られるからである。とすれば我々は時を隔てて、記号の誕生の時代に立ち会っているのである。ともかくも、この諏訪湖周辺は縄文遺跡の宝庫で、まだ面白いものが見つかるのではないかと期待してしまうところである。

 さて、専門の話は書けば書くほど、余計なことを知っている弊害が出て、ややこしくなるので、気楽に趣味の音楽と文学の話にしようと思ったが、これはこれで長くなるので次回以降にとっておこうと思う。

なにはともあれ、これからも長く「節穴」だらけの人生を楽しみたいものである。

新明 英仁

禍中閑話

二番手は一番手と同格である、と思うことがある。スポーツや学校の成績の話ではない。芸術家のことである。
話したかったのはモーツァルトとハイドンのことである。現在の日本では、この二人の認知度は相当違う。「モーツァルト=神童」、として誰もが知るところだが、ハイドンのほうは、親しみを込めて「パパ・ハイドン」と呼ばれていても、ハテと首をかしげる人が多いだろう。この二人は親交があったけれども、年齢はハイドンのほうが24歳も上である。モーツアルト(WAMozart 1756~1791)は35歳で亡くなったが、ハイドン(FJHaydn 17321809)は長生きであった。二人は互いに尊敬しあい、音楽も相互に大きな影響を受け合った。これは天才同士に通った心の機微であり、年齢を超えた二人の友情はそう簡単に理解できないかもしれない。
私はこの二人の音楽を聴くことが多い。そして相当に充足し、心が落ち着く。モーツァルトの音楽は一般に天衣無縫とされる。ハイドンはというと、同じ四字熟語で、創意衝天とでもしておこうか。二人とも天に届くほどの天才で、その違いは認知度だけであると思う。両者とも作曲ジャンルは、オペラ、宗教曲から声楽曲、交響曲、協奏曲、室内楽、器楽曲まで全般に及び、どの分野でも他者の追随を許さない独創性を持っている。ハイドンには「驚愕」「軍隊」などニックネームのついた交響曲が有名だが、ニックネームのない交響曲にも多数の名作がある。しかも、交響曲ばかりに注力したのではなく、宗教曲(ミサ曲、オラトリオなど)や室内楽(弦楽四重奏曲など)に相当念の入った名作がある。
 昨今の情勢は、この二人の音楽を聴きこむのに良い機会である。
 先般入手した交響曲全集のレコード(演奏:アンタル・ドラティ指揮フィルハーモニア・フンガリカ 全106曲+αLP48枚 録音196972年)を全曲聴き終わったが、その天才に改めて敬服した。演奏も見事だが、さらに付属していた解説が素晴らしいのに驚いた。それを書いたのはロビンス・ランドン(HCRobbins Landon 19262009 米)という著名な音楽学者で、モーツァルト関連を含め多数の著作・研究がある。ハイドンのすべての交響曲に言及し、正確に数えていないが日本語の翻訳で400字詰原稿用紙1000枚はあるだろうという労作である(翻訳:岩井宏之ほか)。しっかりとした文献に基づいたものであるのは当然だが、何よりも音楽に対する共感に富んでいる。というより、一曲一曲ハイドンの音楽の持つ魅力を訴えかけてくる強い力を感じるのである。それは資料的な情報ではなく作品の音楽的内容から発したものである。したがって読みながら聴くほうも音楽の未知の魅力に触れることになる。音楽と美術、分野は異なるが、我々も大いに参考とするべき解説である。果たして自分の企画した展覧会のすべての出品作品にこのレベルの解説を書くことができるだろうかと自問自答しなくてはなるまい。
これで思い出したのだが、小樽ゆかりの吉田秀和(19132012)に素晴らしい美術評論があったことである。吉田は音楽評論家として著名だが美術や文学にも深い造詣を持ち多数の著作がある。その一つ『トゥールーズ・ロートレック』(中央公論社 1983)を読んだのは30年以上前のことだが、作品の内容に恐ろしいほど深く切り込んだ説得力のあるものだったという読後感は鮮烈に残っている。つまり、一般的な解説にありがちな、作家の経歴や影響関係、作風や人柄などを適度に盛り込んで要領よくまとめたものなどとは、次元が違うのだ。すぐれた作品の本質にせまるには、作品の表現内容に深く分け入る必要がある。外部情報を解説するのではなく、まず作品そのものの中身から読み込むべきなのである。作家の経歴や作風などを覚えていい気になっていた当時の私にとって、これは強烈な刺激であった。お前の専門が「美術」だなどと言えるか!・・・お前の言うことなどオヨビデナイ、チャンチャラオカシイと言われているも同然だったのである。
したがって、作品解説に当たるとき、非才の身ながらも、なるべく作品の魅力や特色から書きはじめるようにしている。この方法は美術作品に新鮮に向き合えるのがいい。小さな発見をする場合もある。なるべく他者の評価や作家の人柄などの先入観がないところから見るよう努力する。ナントカ勲章や人物の社会的地位などを単純に反映して作品を安易に評価したりしないように留意する。芸術の場合、人脈や勲章で著名になっても、没後には役に立たない。
最後に勝負できるのはナマの裸の作品である。美術でも音楽でも芸術作品の魅力の一つはそこにある。

新明 英仁

 

クマとオニ(立春に因んで)

昨春、私の家の裏にある住宅の玄関先に、驚くほど大きい鳥が舞い降りて何かを食べているのを妻が見つけた。猛禽の仲間のようだが、こんな住宅街に住みそうな鳥ではない。窓からしばらく見ているうちにカラスが何羽か威嚇するように集まってきたが、その鳥は歯牙にもかけない。王者の風格である。カラスも全く手を出さない、というより出せない様子である。これは千載一遇だとあわてて鳥の図鑑を調べてみたのだが、それは「クマタカ」だった。後で聞いた話では、近くの公園に留まっていたようだ。

 ともかく、「クマ」と上につく生き物は、強い、大きいというイメージである。

一昨年、旭川郊外から大雪山へ向かう林道で昆虫採集をしながら車で移動していたとき、大きな黒い鳥が木にとまっているのを見た。頭が赤い。クマゲラだ、と思ったときには飛び去ってしまった。クマタカほどではないが、かなり大きい。問題はそのあとだった。目的の場所で車から降り、周囲の樹木などを見ていたところ、笹薮からこちらに近づいてくる大きい動物がいる。姿は見えないが、ごそごそと音をたててゆっくり歩いて来る。この場合、相手の選択肢は3つある。ヒト、シカ、そしてクマだ。咳払いをしてみたが何の反応も無い。私は最初の二つの選択肢を打ち消すと、急いで車の近くへ戻り、ドアを開けて出現を待った。林道へ出てきた姿を確認したとたん私は乗り込んでドアを閉めた。距離は十数メートルほど。向こうはこちらを襲うつもりは無かったらしい。あっという間に茂みに消えた・・・・。

というわけで、同じ日に二度の「クマ」体験をした。どうやら私はクマと名のつくものにまんざら縁が無いわけでもないらしい。しかし、人生は何事も経験とはいえ、野生のヒグマだけは遠慮したいし、今後の遭遇は避けたいものだ。後日、熊よけグッズを増強した。

話は転じて、クマと同様に大きいことや強いことを表わす言葉に「オニ」がある。当たり前の種類はともかく、私的にマニアックなところでは、オニホソコバネカミキリ(鬼細小翅髪切)など。オニクワガタ(鬼鍬形)は小さいクワガタだが、大あごの形から名付けられたそうだ。むろんオニとは言っても所詮は昆虫であり節足動物であるから、怖がるほどのことはない。このほか、鬼刑事、鬼監督、鬼手(将棋)など変異種も存在し、岩手県北上市には「鬼の博物館」もある。

「鬼」には、死者の魂や怨霊の意味もあるが、やはり妖怪としての鬼を連想することが多いと思う。畏怖の対象であり、さまざまな文学や物語で取り上げられてきたので、鬼退治、鬼に食われる話、鬼に変身する話、地獄の鬼の話など際限が無い。絵なら古くは「地獄草紙」「百鬼夜行絵巻」「大江山絵巻」等から浮世絵、そして漫画・アニメ・ゲームまで、大量のイメージが今も生み出され続けている。また、外敵や権力に従わない者を鬼と見立てることも行われた。鬼とされた大江山の酒呑童子も山賊ないしは朝廷の権力に刃向う一族であっただろうし、「蒙古襲来」を描いた絵巻の中には、元軍の兵士を鬼のように見立てたものがある。厄介者扱いされる方から見ればこちらが鬼である。

ところで「オニクマ」なるモノが存在したそうだ。「鬼+熊」であるから、最強である。これは江戸時代の妖怪画集『絵本百物語』(竹原春泉斎・画)に掲載されているモノであって、その詞書によると、牛馬などの家畜を襲う大きくて凶暴な熊のことであるらしい。絵もユーモラスだが熊に近い姿で描かれている。要するに、妖怪ではなく実在したのであろう。

さて、この収拾のつかない漫然としたエッセイを強引に締めくくるに当たって、紹介しておきたいのは鬼才として知られる狩野芳崖(かのうほうがい)の「仁王捉鬼図」(におうそっきず)である。仁王さま(=金剛力士=仏法の守護神)が、鬼を捉えてひねりつぶしている。仁王さまは迫力のある姿だが、その大きな手に摑まれた鬼の目玉が飛び出していて何ともユーモラスである。芳崖は、幕末明治初期の最も才能豊かな日本画家で、その作品は奇抜な発想にあふれている。重要文化財の「悲母観音図」だけが良く紹介されるものの、もっと一般に知られて良い画家である。

ということで、熊を避け鬼を退治したところで、今回は筆を措く。(2020.2.4

新明 英仁

「北方的」な芸術とは?

 北欧にはシベリウス、グリ-グ、ニールセン、アルヴェーン、マデトヤなど魅力的な作曲家が多数いる。中でも私はシベリウス(1865~1957)のファンであり、とりわけ交響曲第7番(1924年)が好きである。シベリウス最後の交響曲であり、交響曲とは言っても単一楽章で、演奏時間も20分程度と短く、内容的には幻想的な交響詩というような曲である。ブルックナーやマーラーの壮大な交響曲とは全く方向が異なって、簡潔である。しかし、その表現するものは限りなくといっていいほど奥行きが深いと感じられる。印象的な主題がいくつかあって、それが複雑に溶け合うように展開する。具体的な自然現象を思わせるような描写は全くない。音楽を言葉で表現すると徒労に終わることは承知の上で書き続けるなら、最後の一音が消えていったとき、私の感覚は遥か彼方へ開放され、静寂な空間がどこまでも広がっていくようで、深く心が動かされるのである。

 シベリウスは、この曲で故国フィンランドの自然と歴史と自らの人生を反芻し、すべてを語り尽くしたと感じたのかもしれない。その後も交響詩「タピオラ」(これもすばらしい)などが作曲されたが、まもなく彼は引退し、ほとんど書き上げていたと言われる交響曲第8番をはじめとする多数の楽譜は人に見せることなく破棄されたそうである。自作に厳しいのはやむをえないが、なんともったいないことだろうか。

 ところで、このエッセイで考えたいのは「北方的」ということである。シベリウスの音楽は西洋の作曲家中では最も北方的に感じられる。いや「北欧的」というべきかもしれないが・・・それは彼の多数の作品で感じられるのだが、どうしてそう感じられるのか。旋律なのか、和声なのか、リズムなのか、その全部か・・・単に北欧フィンランドの作曲家としてのシベリウスの存在が頭に刷り込まれているからそう感じるだけではないのか?という疑問も湧いて来るのである。

 絵画をそれに例えるなら、北国出身の画家による故国の風景や民俗を多く使った作品であるというようなことになるのだが、この単純な条件に該当する画家は非常に多数いるだろう。多くの北欧出身の作曲家も同様で、単に故国の民謡を主題にしているからというような理由では回答にならないのである。ローカルをグローバル化する力というべきか、群を抜いた芸術的才能によって、地域の文化を高次元で昇華し国際的に認知させる力が必要であろう。また、シベリウスの場合がそうであったように、国民的な芸術が要求される時代に生きたことによる民族的、政治的な背景も大きな要件である。さらに、フィンランドにおける『カレワラ』という神話的叙事詩の存在がシベリウスにとって大きなものであったように、民族や国家の持つ過去の神話や芸術も大きな意味を持つ。

 ということなので、「北方的」であることを考えるのは容易には収拾のつかない問題なのである。私にとって身近なところで考えるなら、「北海道的」という表現もある。「北方的」「北欧的」とある程度重なるイメージがある言葉である。代表的な作家としては、片岡球子、砂澤ビッキ、難波田龍起などで使われている例があったように思う(他にも用例は無数にあるが)。これらの作家は北海道ゆかり、あるいは生まれであるという以上に作風に大きな関連性は無い。おのおの極めて個性的な世界を持ち、影響関係もほとんどない。

 上記の3人は私自身も作家論を書いたことがあるのだが、「北海道的」あるいは「北方的」という言葉に関しては極めて慎重に扱った。というのもこの言葉の感覚的な使用が各作家のローカル性を強調し存在を矮小化してしまうことになるのではないかということ、さらに各作家の個性を表現する適切な言葉が見つからないので逃げ言葉として使ったように見えるのではないかということであった。彼らの作品は広く日本文化の視点から複合的に考えるに足るだけの内容を持っているのだから、そんなことをしては礼を失するのである。

 ただし、堂々巡りになるが、北方的な要素は彼らの作品に間違いなく存在すると思う。鑑賞する場合ならそれを何となく感じればよい。ところが解説や文章を書く我々の場合は、その内容を具体的で複合的な視点から説得力のある議論を展開できるか、ということにかかってくる。これはなかなか難しいので、情けないが逃げを打つことになることも時にはあるわけである。鋭い読者なら、そんな手抜きで腑抜けの文章はすぐに見透かされてしまう。作品の本質に迫る努力が要求されるのである。

新明 英仁

学生時代

もはや40年以上前のことになるが、私は念願かなって仙台市の土を踏んだ。東北大学の文学部に一浪で入学したのである。親元の旭川から離れて遠く仙台の一人暮らしの毎日は夢のように楽しかった。勉強は全くしなかったが、大いに遊んで青春を謳歌した。結果的に一年留年して卒業したけれども、どうして卒業できたかは未だに謎である。

現在の大学生は勉学に就職活動に、いろいろと忙しいようだ。大学に集中講義などで出向くと少しはその様子がわかる。出席率極めて良好。そして、自分の学生時代と比較して気の毒になる。世の中が以前よりシステム化してしまっているのだ。枠に嵌められると抜け出すのが難しい。勉学や就職でいろいろ努力することが求められても、若者なら反発する気持ちも起きるだろう。もっと伸び伸びと育てたほうが後年になって良い効果が現れるのではないか。

さて、自ら選んだ文学部に入って驚いたのは、文学部が実にさまざまな人間の集まりであったということである。文学といえば、国文学か英文学か、詩人・小説家か文芸評論家かという世界であるように思っていた私は、「文学部」の具体的内容に驚いた。つまり、その時点では頭の片隅にもなかった美学・美術史をはじめとして、哲学、心理学、社会学、考古学、歴史学、民族学、言語学などの専攻を幅広く包含するものであった。これは受験生の常識に近いことであるはずなのだが、それさえも知らないで入学した田舎の小僧であったわけである。さらに受験は終わったのに大変真面目に勉強する学生が多いのに驚いた。語呂合わせにもならないが、「ブンガク」とは、「バンカラ」なものである、という私の考え方は、多彩な友人たちとの交流によって、少しずつ変わっていった。つまり、世間の広さを知っただけ少しはマシな人間になったということである。

とはいえ生活ぶりはといえば、1年生の最初の学期だけは少し勉強したが、それ以後はマージャンにのめりこみ昼夜逆転の放漫さであった。一方でギリギリの線で単位を落とさない術も身についた。出欠を気にしない先生の講義を多く取り、試験勉強だけはそれなりにして単位を取るという、オーソドックスだが、おそらく今は通じない手法である。私の友人といえば類は友を呼ぶ状態で、反骨型、はみ出し型の不勉強な仲間が多数出来た。後日、どういう訳か、彼らの多くが大企業や自治体の研究職員(大学教員や学芸員を含む)として、しっかり就職したのは不思議なことである。卒業当時(1980年頃)は、文学部などはお呼びではないといわれるほど就職難の時代だったからである。

ところで、大学の教養部の講義は、たまに出席しても退屈なものが多かった。講義の多くは大教室である。教壇で頭を掻きむしりながら外国語の文献をその場で翻訳して延々と読み上げる先生、自分の原稿を時間いっぱいにゆっくり読んで学生に筆写させる先生、講義の半分は自分の留学時の四方山話という先生、黒板に向かってブツブツと小声で何も聞こえない先生など個性的ではあったが・・・大体そんなものであり、のんびりとしていた。実際には、味のある教官の方々であったのだろうと思うし、そこには現在は失われた大学教育の寛容さが隠されていたのではないかと思われる。

私の生活は、入学して2年後に専攻することになった東洋日本美術史の研究室に入ってからも、大同小異であった。しかし、たまにしか顔を出さない研究室で、講義では見せない、担当の先生の鋭い見識に何度も接することが出来たのは幸いであった。物静かな先生であったが、私へのご叱声も含め、今でも心に残っているお言葉がいくつかある。私のような不肖の輩がここでお名前を挙げるのも畏れ多いが、伊藤若冲など奇想の画家を研究し世に送り出したことで知られる日本美術史の辻惟雄(つじのぶお)先生である。美術史の研究に関する先生のお言葉は、美術館の学芸員となって以後、30代、40代と年を重ねるにつれ、じわじわと効いてくる含蓄に富んだものであった。これこそ真の意味での大学教育だったのではないかと思う。

 

                                  新明 英仁

初夢:恐竜と美術館・博物館

子供の頃から好きだったもののひとつが恐竜である。恐竜の図鑑を読み込んで、名前や特徴、生きていた地質年代などを覚えていた。映画では、「キングコング」(1933年制作 多数の恐竜が登場する)、「失われた世界」(初映画化は1925年、コナン・ドイル原作1912年)、「地底旅行」(初映画化は1959年、ジュール・ヴェルヌ原作1864年)などがテレビで放送されるたびに繰り返し見ていた。これらSFの原作を集中的に読んだ時期もある。何しろ50年以上も前のことであるから、CGを駆使した「ジュラシック・パーク」(マイケル・クライトン原作1990年、1993年映画化)のような映画が作られるなど想像もできなかった。また、この恐竜趣味と一部重複したのがゴジラ趣味であった。
ところで、その頃の古い図鑑に紹介されていた恐竜の特徴は、爬虫類であり、大きいが鈍重で、知能も低いというものであった。絵に描かれている恐竜はいずれも尻尾を地面に引きずり、足も胴体も太くていかにも動きが遅そうだった。これらの絵や解説は何となく子供心に不満だった。後から思うにこうした考え方は、人類があらゆる生物の中で最も優れており、人類の属する哺乳類は爬虫類である恐竜よりも優性であるという固定観念がまとわりついていたのではないかと思う。特に先進国における大勢として、人類は万物の霊長であり、最も優れていて自然を意のままにできる、という増長した気恥ずかしくなるような万能思想が背後にあったと思われる。

恐竜に関する研究は、この50年間に飛躍的に進歩した。絶滅の原因や生態の復元に説得力のある仮説が次々と立てられている。中でも、そうした仮説の嚆矢となった、恐竜は活動的(恒温動物説)で社会性もあり知能も高いとするR・バッカー(アメリカの恐竜学者)の『恐竜異説』(1986)を読んで驚き、さらに鳥類は恐竜の進化したものであるという考え方が出たのには驚愕した。ニワトリは恐竜の子孫なのである。これらの説は、人類万能という思考回路が近年になってかなり変質し、自然に対して少し謙虚になったのと関連しているのではないかと思う。調べれば調べるほど未知の発見が多く人類にも示唆するところがあるのが古生物学のようである。
ところで、何を書きたいのかというと、『恐竜異説』を読んだとき、これならば恐竜を主人公にした小説を書く人が出る、と無能な人類である私は思ったのである。ところが、バッカー本人が既にそれを書いていた。しかも面白い。さすがである。もうひとつあるが、美術館での展覧会、これも実現可能だろう・・・というのは、恐竜の復元は、羽毛がある種類もいるので極彩色のものもいたのではないか、象の鼻やトサカのように化石になりにくい部分があるのでそれを想像して補うとどうなるか、子供と大人では体の模様が違っていた可能性があり、雄と雌にも違いがあり発情期には体の色が赤くなったり青くなったりしたのではないか・・・・などと延々と想像してしまうからである。なにしろ恐竜は美しい羽を持つ鳥の先祖なのだから。CG、造形、絵などを手がける恐竜アーティストは多数いるのでアートとして美術館で紹介することが出来る。SF文学や恐竜の表現の変遷や映像史を紹介し、当時の生息環境を再現し、トリッキーな要素を加え、恐竜を取り入れたデザインやおもちゃを紹介し、パフォーマンスやインスタレーションで現代美術家も加わる、というものである。いわば美術を含む「博物」を総合した恐竜展である。私が思い付くくらいだから、既にいくつかの展覧会は開催されているかもしれない。しかし、美術館と博物館の恐竜好きな学芸員や研究者が本気で協力し合えば、本格的なものが出来上がるだろうと思う。
恐竜は科学博物館や自然史博物館の枠内で紹介されてきたものである。それに美術館が加わったらどんなものが出来るか見てみたいものだ。近年の恐竜映画は面白いが、多くの場合、科学的知見が生かされているとはいえ、メインストーリーは恐竜と人間の追い駆けっこか恐竜同士の戦いのドタバタ劇に終わっている。もっと自然で多様な恐竜の姿を想像し考えてみたい欲求に駆られる。
本来ならば科学と芸術は友人であり、協働すれば面白いものが出来る。しかし、現実には美術館と博物館の間の専門的、心理的距離は意外に遠く、接触する機会も少ない。博物館は物(化石、標本、道具など具体的なもの)が語る事実を知り、歴史、民族、自然、技術などについての理解を深めるためにあるが、美術館は物(芸術作品)を通じた鑑賞というところに主眼が置かれる。両者に物を集め保存するという共通点はあるが、「鑑賞」には博物館的な考え方でフォローできない抽象的で情緒的なところがある。恐竜に限らず、両者の協力が簡単に実現しないのは残念である。そこには展覧会の大きな発展性と可能性があるのではないか?・・・だが、もし企画するとして、予算は十分だろうか!・・・夢から現実に戻れば恐竜と美術館の距離は実に遠い。

                                  新明 英仁

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