市立小樽美術館 市立小樽美術館協力会

KANCHOの部屋

埋もれた画家

美術館の学芸員にとって、仕事の醍醐味といえるもののひとつに、埋もれた画家の再発見がある。むろん、西洋の名画や国宝級の美術品を展示紹介することも面白いが、誰も注目していない優れた作家を調べて世に送り出すことはそれにまさる楽しみがある。
つまり、当の学芸員だけがその魅力を知っていて、調べるうちに誰よりも詳しくなるという、マニアックな楽しみが味わえるわけである。
そう、世の中に知られていないのだから、調べた人が最も詳しいのは当たり前である。
しかし、普段から広くアンテナを張っていないと、そのような作家にめぐり合うことは困難である。仮に目に触れても作品の良さに気づかなければおしまいである。ともかく、そのような作家を見出すには、詳細な調査、経験と勘と情熱、それに良い作品を見る眼が重要だ。そして論文や展覧会で世に送り出すときは、自信と不安が相半ばする。学芸員としては、自分の眼が節穴ではないことを信じるしかない。
特に地方の都市などで活動している作家の中には、あまりにも身近な存在であるために、地元の人がかえってその才能に気づかないということもあるだろう。美術館学芸員が関わることによって再発見された代表的な北海道ゆかりの作家として、神田日勝(鹿追町)や深井克己(函館市)の例がある(以下カッコ内は主なゆかりの地)。これは北海道立近代美術館の学芸員の努力によるところが大きい。小樽市ゆかりの版画家一原有徳の異才も、神奈川県立近代美術館の館長をつとめた土方定一氏の積極的紹介によって全国的に知られるようになったことは、関係者の間で良く知られている。高坂和子(根室市)、佐藤進(旭川市)なども、美術館での積極的な紹介によって、ローカルな存在ではなくなった例である。
むろん、埋もれた作家の再発見は、いわゆる新発見報道とは異質のものである。既に作品は発表されているので、未知の動植物や化石ではない。何らかの理由で忘れられていたのである。その作家を見出したことに瞞着せず、調査を重ね、その作家の持つ真実の魅力を展覧会と論文で引き出し、広く再認識してもらうことが重要となる。
さて、以前からずっと気になっている秋田義一(旭川生まれ、生年不詳~1933没)という夭折の画家がいる。遺族は所在不明である。旭川の初期の画会を調べているときにその名は登場し、面白そうな作家だと思ったが、実際の作品を見る機会に恵まれなかった。上京して近代洋画の巨匠である萬鉄五郎主宰の円鳥会に所属したことがわかるし、二科会にも出品している。旭川で五人展(萬鉄五郎を含む)や個展を開催し、旭川新聞記者だった若き小熊秀雄がその展評を書いた。また、詩人の金子光晴・森美千代夫妻と上海で放浪生活をしていたことも金子の著書『どくろ杯』で詳細に述べられている。さらに、『芸術新潮』連載の「気まぐれ美術館」で洲之内徹氏が二回にわたって言及し、作品のカラー図版を掲載した。私は、旭川の美術を一冊の本にまとめる仕事を依頼されていたので、何とか執筆前にその作品を見たいと思い、所有しているという信州の某ホテルに電話を入れたところ、調べてくれたものの、該当作品は見つからないとのことであった。他のことにかまけているうちに年月が過ぎ、作品は所在不明となり、恥ずかしながら実物を調査する機会を逸したのである。探索はもはや「迷宮入り」かもしれない。
ところで、小樽にも埋もれた画家はいるだろうと思っていたら、船樹忠三郎(舟木忠三郎とも表記される、1891頃生~1951没)という気になる画家に出会った。現在、当館の一階で5点の作品が展示されている(2018年3月4日まで)。その名前は辛うじて知っていたが、作品を見るのは初めてである。今のところ大正13(1924)年以後は画家としての活動記録がなく、事情によって家業に多忙であったらしい。従って画家として活動したのは20代から30代にかけての十数年間ほどとなる。大正初年頃から上京して大下藤次郎主催の日本水彩画研究所に学んでおり、日本の水彩画を代表する一人である小山周次と交際があった。初期の二科会(1914年設立)に入選し、その作品は雑誌『みずゑ』に掲載されている。また、小樽の羊蹄画会や緑人社を通して工藤三郎、平澤貞通、木田金次郎、高田紅果など地元ゆかりの画家や文学者とも交流があった。5点の展示作品はいずれも小品だが、唯一の油彩画「家々の連なる風景」を見ると、上記した萬鉄五郎や岸田劉生らが大正元(1912)年から翌年にかけて結成・活動し、日本の近代美術に重要な影響を与えたフューザン会の影響を受けているのではないかと思われる。横長の画面に低い視点から野原と民家の家並みを描いた作品だが、明らかに後期印象派風であるだけでなく、萬鉄五郎などからの直接的影響があるように感じられる。この作品に律動する生命感は、船樹の明らかな才能を示している。他の水彩・素描も豊かな才能の片鱗が見られる。埋もれるには惜しいと思うので、ここで紹介したのである。遺された作品の数が非常に少ないことに加えて、大正時代の作品を新たに見つけ出すことも容易ではないだろう。しかし、今後は小樽ゆかりの重要な画家として復権させていきたいものである。

新明英仁

多様性

二十五年ほど前のことになるが、自宅を新築したとき、庭づくりで高さ2mほどのキハダの木を植えてもらった。落葉高木、ミカン科の樹木である。2~3年後、その木はほとんど枯れて、葉が出ているのは30cmほどの枝1本となった。何とか生きてもらいたいと思い、私なりに努力して強壮剤のような薬や肥料をまいてみたところ、徐々に回復して、その枝が伸び、枯れた幹よりも太く大きくなっていった。現在では高さが4mほどになり、剪定はしているものの青々と茂っている。
何を隠そう、この木は北海道ではアゲハチョウ科の主たる食草で、美しい揚羽蝶(ナミアゲハ)が次から次へと庭へやってきて、卵を生んだ。このナミアゲハという蝶は、本州ではたくさんいる。「ナミ」という名がついているくらい「並み」の蝶だ。しかし、北海道ではあまり見かけない。山へ行っても数多く見るのはこれに似たキアゲハだけである(キアゲハの食草はセリ科の植物)。その蝶が住宅街の我が家の庭にやってくる気分は悪くない。この木を植えたそもそもの目標がそれだったからである。初夏になると、大きな緑色の幼虫が葉についている。といっても木を枯らすほどたくさんいるわけでもない。庭には、多種の昆虫が好むミズナラやノリウツギも植えてある。虫好きの私としては大変幸せである。
昆虫は一塊の土くれや木屑、糞や小さな水溜りからも多数発生する。未発見を含め150万~200万種とも言われる昆虫の生態は非常に多様である。陸上のあらゆる環境に適応しているといってよい。『虫の惑星』(米の昆虫学者ハワード・エンサイン・エヴァンズ著)という名著があるが、人間中心から自然中心へ見方を変えるなら、なるほど地球は虫の星でもある。推計によれば、400㎡ほどの牧草地に1兆(!)の虫(節足動物を含む)がいるというのだから。
一方、われわれヒトは数千種の哺乳類の中の1種に過ぎない。しかし、実に多様なヒトがいる。その多様性も面白い。私のように虫好きなヒトも百人に一人くらいはいるだろう。美術のファンはどうか。それなりにいると思う。美術に関する職業、画家、彫刻家、デザイナー、教員、研究職、学芸員・・・・などに携わっているヒトはどうか。これも相当な数になる。しかしながら、その専門性や趣味の傾向によって、美術の中でもかなりの多様性がある。美術関係者としてひとまとめにされそうだが、実は個別に異なるのである。
ここから少しまじめな話。多様であるということは、ある人の考え方に全く関心がなく、接点がないという人も相当数いるということである。最近気になるのは、誰にでも役立つことや経済的に潤うことが優先されるという実利主義的、成果主義的な社会の傾向であり、それが多数派のように見えることである。むろん芸術文化などは蚊帳の外である。
役立つというと聞こえは良い。それは生きていくために大切なことではある。だが、そのような技術や施策は、多くの場合、悪用、誤用、事故、濫用の可能性もあるものである。我々は普段からそのような事例を嫌というほど見ている。歴史をさかのぼれば、その事例は膨大である。単純に「役立った」「成果が上がった」と考えるのは危険なのである。それは当面の結果だけを、数字的・統計的もしくは恣意的に見ているということであると思う。
人について考えるとき、文化の存在を無視することは出来ない。それが果てしなく実利を追求する欲望の抑止力となり、長い目で見て本当に役立つものを育てるのではないだろうか。これは技術や施策を用いる人たちの人格の良し悪しの問題では済まない。過去現在未来について深く考える想像力や洞察力が必要であり、それを育てるのは文化の大きな役割である。むろん、美術もその一分野であり、たとえば絵画的な思考方法は、人という知性的動物が文字を持つ遥か以前から育んできた多様な文化の根幹の一つである。仮に美術を愛する人が少数派であるとしても、それが社会に果たす役割は大きい。美術を含め、文化は多数決の世界ではない。多様性こそが大切である。そこには、少数の中に優れた価値あるものを見出し長い目で発展させていく力が潜んでいると思う。

ああ、また肩に力が入った。これでおしまい。

新明英仁

汽車の記憶

私は旭川の旧国鉄の官舎で育ったので、家の裏は少し行くと線路の土手だった。旭川駅に近かったので、線路は幾重にも分岐して広がっていた。

数十両編成の貨物列車が自宅の窓からすぐそこに見えた。何両編成か数えて楽しんだ記憶がある。むろん、汽車の通る音には慣れていて、騒音とは思わなかった。夜も眠ることができた。今でも電車に乗ればその音は眠りを誘う。

小学校時代、私は時々その線路の向こうに流れる忠別川まで遊びに行った。現在のように猛烈な速度で走る電車もなく、蒸気機関車はゆっくりと走っていた。周囲は駅の近くであるにもかかわらず、自然の宝庫だった。雑木林も河畔林もあった。小さな水溜りに小型のゲンゴロウが泳いでいた。朝、官舎の壁に大きなクワガタムシがとまっていた。美しいアカネトンボ(ミヤマアカネ)が飛んでいた。昆虫の採集に親しみ、穴が開くほど図鑑を睨んで種類を調べた。今でもその趣味が続いているのは、この体験から得たものである。

小学校高学年になって、それが変わった。函館本線の電化複線工事である。当時のことであるから自然を守ろうという意識は少なかったようである。忠別川は改修され掘り起こされ、河畔林はなくなった。身近だった自然が遠ざかった。それから半世紀後の現在の旭川駅裏は、緑化され、樹木が植えられ、自然を取り戻しつつあるが、それは何か、過去の償いであるかのように私には思われる。

さて、母の実家が札幌の石山だったこともあって、毎年のように家族に連れられて汽車に乗り、遊びに行った。その実家のそばを定山渓鉄道が走り、窓から山際を走る電車が見えた。現在は住宅街だが、当時は一面の田んぼで、たくさんの蛙を採って遊んだ。祖父母に連れられて汽車に乗ったこともあるが、札幌駅の手前の苗穂駅が広くて大きいので、札幌に着いたと勘違いしたことがあった。

それだから、子供の頃、古い札幌駅舎には何度も降り立った。その後は都市化・商業化され、今はその懐かしい景色のかけらも残っていない。現在開催中の大月源二展(~7/2)には、「春雪の札幌駅構内」(1966 個人蔵・当館寄託)という私が親しんだ50年前頃の札幌駅の様子を髣髴とさせる油彩画が出品されている。雪と汽車とホームと街並み。雪国の生活感が滲み出た佳品だ。

日本では、汽車や電車を取り込んだ絵画作品で一般に知られたものは少ない。あえてあげるなら池袋モンパルナスにもゆかりのある長谷川利行の作品であろう(鉄道博物館蔵・さいたま市)。一方、海外ならターナー「雨・蒸気・スピード-グレート・ウェスタン鉄道」、モネ「サン・ラザール駅」やデルヴォーのいくつかの作品が良く知られていてすぐに思い浮かぶ。ともかく鉄道にはそれなりに深い思い出のある私が石炭・海産物輸送の動脈であった旧手宮線横の美術館にJRで通勤するようになったのは、何かの縁であろうか。

とすれば、ひとつの夢として北海道と小樽市の鉄道にかかわる美術の展覧会を考えてみるのも悪くはなかろう。本州ではすでにいくつかの企画展が開催されているようだが、北国の特色を反映した内容の展覧会企画である。小樽市総合博物館では蒸気機関車に体験乗車することができるし、鉄道関係の常設展示が多数ある。視野を広げると文学にも面白い作品はたくさんあり、絵本にも鉄道は多く描かれている。博物館や文学館・図書館と連携することもできそうだ。問題は上記の大月源二のような北海道ならではの良い作品(絵画・写真・デザインなど)が現実に集まるのかどうか?これは手宮線を散歩しながら考えた夢のような話だが、展覧会はそれから始まることもあるから面白いのである。

新明 英仁

見るもの聴くもの

私は数十年来のクラシック音楽ファンである。私の育った旭川で演奏会が開かれるのは珍しかったから、少年時代はLPレコードを聴いていた。またFM放送も良く聴いていた。昭和40年代当時2,000円のレコードを買うと毎月の小遣いはなくなった。それでも小遣いは友人の中では多いほうだった。安価な装置で高価なLP一枚を何十回も繰り返して聴いていた。

ところがやがてCDの時代がやってくる。デジタル?・・・そんな意味のワカラナイものは聴くものかと思っていたが、時代の流れに呑まれ、CDを買い揃えるようになった。小遣いの過半はそれに費やした。何とか再生装置もそろえた。集めたLPを半分くらい売った。しかし、何かの本にはLPのほうが音は良いと書いてあったと記憶する。全盛のCD業界に遠慮して片隅にちょっとである。

そして最近、再びLPが見直されてきた。それまでCDの再生装置は安物を故障するまで使っていたが、一念発起して総入れ替えし、さらにアナロク(LP)プレーヤーや真空管アンプを買い足した。50代にしてオーディオという、未知の世界へ足を踏み入れることになった。

聴いてきたCDをすべて聴きなおしたいと思うほど、音が良くなった。低音の弦楽器やティンパニの音が底から鳴り響く。そして、古いLPを聴いてみてさらに驚く。楽器の音が優美である。解像度が高くなりオーケストラのすべての楽器の音が聞こえてくるようだ。多数のLPを売ってしまったことを少し後悔した。

ところで、音楽の場合、音の世界だからCDでもLPでも本物、もしくはそれに近い世界である。むろん、実演にはかなわないが、実演は日時と場所とプログラムに選択の余地があまりない。CDやLP再生の場合は自宅で自分の気に入った曲目・演奏を良い録音で繰り返し聴けるわけである。

だが、美術の場合はそうは行かない。実物との出会いはほとんどの場合、一期一会である。

画集や作品集は、教育・教養のためや鑑賞の記憶を呼び戻すのには大変有効だが、実物ではない。それでも絵画や版画ならば印刷物の平面に納まるが、彫刻などの立体となると印刷物では絶望的である(印刷技術と写真家の腕次第でかなり良いものは作れるのだが、それはそれで長くなるのでここでは書かない)。

一期一会といえば、最初のそれは新米学芸員の研修を兼ねたフランス旅行でやって来た。30年以上前である。

言わずと知れたルーブルである。これは何と言っても王道である。

盛期ルネサンスの部屋に入ったとき、芸術の神様が降りてきた。巨匠たちの絵画の恐るべき重みと輝き・・・感じたものは、永遠の時間、何時間そこにいても飽くことのない美の世界・・・私はそれに完全に打ちのめされた。

美術館の学芸員をしていながら出不精であった私は、初めて実物を鑑賞することの本当の意味を体感したのである。何と遅い体験だったことだろう。私の育った当時は北海道に美術館などほとんどなかったから、訪問する機会も習慣も持たずに画集をながめていたのであった。

その後、何度かこのような体験をした。感動した対象は古今東西絵画彫刻工芸いろいろあるが、比較的まれな出来事ではあった。仕事の合間を縫って美術館や画廊に見に行く時間などほとんど取れない。通常の仕事では自分の勤務している美術館の所蔵品か特別展の出品作を除くと、印刷物の図版を参考にすることのほうが圧倒的に多い。期待すると実物を見てがっかりすることもある。だが、なるべく多数の作品を見る努力は必要だ。

いずれにしても、研究や展覧会、作品の収集のためには、ほぼすべての関連作品を事前に実際に見て調査する必要があり、そのための調査に時間とお金がかかるのである。この場合、作品の品定めをすることができる「眼」が何よりも重要となる。苦労して時間をかけて調査し、研究し、展覧会を企画実現したとき、それらの作品は自分の人生にとってもかけがえのない一期一会の記憶となって残るのである。

何となく、趣味から仕事の話になって肩に力が入ったようである。今回はこれにて。

新明 英仁

まつり

P1100679「潮祭り」が終わってしばらく経つが、今年、新米館長として団扇絵コンテストの審査委員長を仰せつかり、表彰式と講評にも参加した。来年の潮祭りの団扇デザインを決める大事なコンテストである。市内の中学1年生の作品がグランプリに輝いた。出かけると、会場は祭り一色で、多数の観光客も加わり、大混雑。仕事を終えてから夕方の表彰式に出席した私は、周囲の人々の浴衣姿、法被姿の中で、一人背広の上着を着ている有様で、大変浮いた存在だった。こりゃあ来年は、せめて団扇くらいは持っていくようにしよう。

 

ところで、祭りといえば、懐かしい思い出がある。

もう40年ほど前の学生時代の夏、ゼミの合宿のあと、友人たちと一緒に仙台から青森まで行ったことがある。青函トンネルも東北新幹線もない頃である。青森駅に着いたのは8月初旬、ねぶた祭りの始まる日の午後であった。晴れた日でかなり暑い。それとともに、なんとなくモウモウとしたお祭前の気分が町を包みこんでいる。青森の街中に住む友人の家へ寄せてもらってわれわれは少し仮眠した。友人たちは祭りで跳ねて(踊って)いくという。しかし私は、夕方の青函連絡船に乗って北海道へ帰らなくてはならない。

すると女友達の一人が、私を連絡船乗り場まで送ろうと言ってくれた。

町に出ると夕刻が迫り、本通の脇筋にはこれから繰り出すねぶたが準備されている。刻々と祭りの本番が迫りつつある。その友人は、私と一緒に連絡船に乗りこんでしまうのではないかと思うほど、船の近くまで会話しながら送ってくれた。そして陽が大きく傾く。彼女は私の恋人でもなんでもないのだが、後ろ髪を引かれるような気分で別れを告げて連絡船に乗り込んだ。

その直前に夕日が沈んだ。

 

ただ、これだけの思い出である。私を送った女性がその何年か後に心臓の病気で若い命を落としたこともあり、このありきたりな出来事がねぶたの濃厚な熱気と重なって繰り返し繰り返し思い出される。この友人たちに今再び会えたら、どんなにうれしいことだろう。その時その場所に戻ることができたならば、惜しむものなど何もない。

 

祭りは本番のときも良いが、始まる前の期待感、そして終わった後の余韻も良い。当館の「まつり写真展」(9月18日まで開催)を見ながら、そう思った。

新明 英仁

木版画の話

最初にご挨拶申し上げます。この4月から館長をつとめることになりました新明英仁(しんみょう ひでひと)と申します。道立近代美術館、道立旭川美術館、道立文学館で36年間にわたり、学芸員として日本の近現代美術の研究や作品の収集、展覧会の企画などの仕事をしてまいりました。どうぞよろしくお願いいたします。

今後、この欄では、さまざまな芸術文化に関する話題を取り上げていきたいと思っております。

 

今回は、当館で開催中の「木版の夢」展(7月3日まで)に関連して、木版画の話です。

誰もが小中学校時代に学ぶ技法ですが、この歴史は日本でも相当古い時代にさかのぼります。中国から伝来した当初は、経文(お経)を摺った文字だけのものであったようです。絵としては、さまざまな仏様の姿を摺った「摺仏」(すりぼとけ)が平安時代には作られていました。版木に紙を当てて摺る単純な白黒の木版です。これは仏像の内部に納めたり、社寺の門前で信者に売られたりしたものです。たくさん仏様の姿をつくればそれだけ功徳(くどく)も積めるということもあって流行します。もっと簡単に木版をハンコのように使う「印仏」(いんぶつ)というのもありました。やがて木版の上に美しく手彩色した仏様の画像も作られるようになりました。

江戸時代に入って、庶民階級が台頭してくると、木版は大きく変化していきます。

家庭や寺子屋での教育のために使われた「庭訓往来」(ていきんおうらい)や初期の物語本には絵入りのものが多数ありました。これは、つまり現代でいうところの「印刷」に当たるものです。しかし、浮世絵が登場すると、木版の芸術的な価値は一挙に高まります。鈴木春信に始まる多色摺木版画(錦絵 にしきえ)の発展により、版元(出版者 シリーズものなどの出版を企画する)、絵師(画家 下絵を描く、色指定する)、彫師(ほりし 版木を彫る)、摺師(すりし 和紙に摺る)の分業によって大衆のための浮世絵が大量に生み出されました。また、江戸時代後期には、大衆の読み物である黄表紙(きびょうし)、合巻(ごうかん)、読本(よみほん)も普及し、その挿絵は葛飾北斎や歌川国貞など一流の浮世絵師たちによる創意に富んだものとなったのでした。これらの木版画は、当時の大衆にとっては、現在の写真集や雑誌、大衆小説のような印刷物でしたが、現在の私たちから見れば、芸術性豊かな美術品といえるものです。

この浮世絵の伝統は幕末から明治に入っても続きました。しかし、明治末期になって、浮世絵のような分業による量産ではなく、自らの芸術的創作意欲にのっとって、自分で下絵を描き、自分で版木を彫って、自分で摺る、というように、すべて一人で木版画を制作する「創作版画」の試みが盛んになり、現在ではそれが銅版画など他の技法も含む「版画」と呼ばれる美術のジャンルに含まれたものとなっています。当然のことながら、数多くのすぐれた作家たちによって木版画ならではの表現や技法の研究も進み、多彩な表現が生み出されてきました。

さて、そこで登場するのが今回の展覧会にも出品されている棟方志功(むなかたしこう 1903~1975)です。小樽の版画家たちに大きな影響を与えています。彼は、戦後に数々の国際展で受賞し、日本の木版画のすばらしさを世界に広めた国際的作家になりましたが、昭和4年に初めて小樽に来たときはまだ20代の若さでした。招いたのは美術教師の成田玉泉(なりたぎょくせん)で、当時小樽在住の斎藤清や未だ中学生だった河野薫(かわのかおる)、金子誠治に棟方を紹介しました。斎藤清は棟方と交流を深め、昭和13年には金子誠治らとともに小樽創作版画協会を創立しました。河野薫も棟方の激励を受け、木版画の道を歩みました。

今回の展覧会では、これら5人の小樽ゆかりの木版画家を紹介しています。ご覧いただければ、各作家の個性と木版画の表現の面白さに必ずや惹かれることでしょう。P1100410

最後に、木版画の魅力とは何でしょうか?棟方志功はそれについてさまざまなことを著書で述べていますが、その中で、仏教の感化を受けて自分は「他力」で作品の制作を行うと語っています。この「他力」という言葉は「偶然のなせるもの」「意図しないでできるもの」などと置き換えてもいいでしょう。つまり、下絵を裏返して板に貼り、彫刻刀で彫り、絵の具を塗って摺るという間接的な作業を重ねることにより、下絵をはみ出したり、単純化されたり、木目が出たり、摺りの濃淡やかすれが出たり、思いがけない表現が作品に生み出されるということです。むろん、その効果を予測し、応用することもできるでしょう。それでも偶然は起きます。その繰り返しによって、作品の世界が広がり、味わいと深みが出るということなのです。この長い歴史と奥深い味わいを持つ木版画について、ぜひ多くの方々に関心を寄せていただければと思います。

                                 新明 英仁

 

美術のなかの“生きものたち”

― 人は地球上のあらゆる生きものと共生し、その関係は古くから絵画、彫刻、工芸などさまざまなジャンルの美術に表現されてきました。美術家にとって「命あるもの」は重要なインスピレーションの源であり続けています。

飼い犬や飼い猫、小鳥などの小動物は、人の親しい友であり、大切な家族の一員として、美術家たちの制作の題材になり、古くから人々の生活や労働にかかわってきた馬、牛などの動物たちもまた、生活風俗のテーマで表現されることの多い生きものです。

一方、そうした日常から離れて、人間が住むことのできない海の中の生物や、現実には存在しない想像上の幻獣を生みだして描いた作品もあります。美術作品には、生きものへの愛情が込められているだけではなく、ときに声高ではないけれども風刺を込めた擬人化や、社会への批判を込めて表現される場合もあるでしょう。―(企画展パンフレットより)

P1100123 今回の企画展「美術のなかの“生きものたち”」(~4月17日)は上記の主題をコンセプトに、北海道ゆかりの美術家を中心に、油絵、版画、彫刻、絵本の原画などにあらわれた生きものたちを題材とした作品を選びだしました。出品作家は故人がほとんどですが、上野山清貢、浦久保義信、小川原脩、かつやかおり、金子誠治、河野薫、国松登、小寺健吉、小島真佐吉、渋谷政雄、須田三代治、高森捷三、竹部武一、手島圭三郎、鳥居敏文、中野五一、中村善策、藤本俊子、水谷のぼる、宮川魏、横川清次の21人で、当館2階展示室に合わせて42点の作品群を展示している。

多用な表現スタイルと作例により、生きものたちに託された作者の思いを感じていただければ幸いです。また、市立小樽美術館に収蔵された新しい作品や意外なコレクションを知っていただく機会でもあります。

一方、1階の中村善策記念ホールでは「小樽洋画研究所と中村善策」をテーマに大正期から昭和初期の小樽画壇を形成した先人の三浦鮮治、兼平英示、工藤三郎、山崎省三、谷吉二郎、加藤悦郎、大月源二ら中村善策の仲間たちの作品13点と中村作品12点(いずれも当館コレクション)を展示している。

また、3階の一原有徳記念ホールでは「幻視者 一原有徳の世界7」のタイトルのもとに、一原を美術の世界に導いた須田三代治の作品9点と一原有徳の作品26点(いずれも当館収蔵品)を展示している。記念ホールの展覧会期は7月3日まで。

 

私事になりますが、小生は2006年4月に当館館長に委嘱されましたが、今年で満10年となり、退任を決意しました。長い間お世話になりました。お力添え頂いた皆さまに心より感謝申し上げます。

佐藤敬爾

小樽運河・いまむかし

 みなと小樽のシンボルでもある小樽運河は長年、美術作家たちの格好のモチーフとなってきた。小樽に生まれ、運河に親しんで育った出身画家はとりわけ生き生きした作品を残し「運河画家」の異名で呼ばれる画家もいました。今回の特別展「小樽運河・いまむかし」展(~7月5日)は、文字どおり、この運河を見つめてきた作家たちの作品を網羅し、当美術館1、2階ホールを会場に「追想の小樽運河」「小樽運河への思い−藤森茂男」「小樽運河のいま」の3部構成とし、さらに特別陳列として小樽運河の埋め立てに反対して全国的運動にまで発展させた商業デザイナー藤森茂男に的を絞った「運河保存運動の父 藤森茂男」のコーナーを設けた。
 出品作は合わせて60点に上るが、藤森作品を除き、いずれも当館収蔵の油彩、水彩、版画作品。出品作家は石塚常男、伊藤正、金子誠治、、兼平英示、金丸直衛、木嶋良治、小平るり子、小竹義夫、小林剛、佐藤善勇、白江正夫、鈴木儀市、鈴木傳、角江重一、千葉七郎、冨澤謙、中村善策、羽山雅愉、古屋五男、宮川魏、森田正世史、山田義夫、大和屋巌、渡辺祐一郎(五十音順)と藤森茂男の25人。うち、現役作家は冨澤謙、小平るり子、木島良治、羽山雅愉の4人で、残りはいずれも故人である。
 大正末期から昭和初期の戦前末期まで商都小樽の隆盛期を築いた小樽運河は、明治末期から大正期にかけて、港湾施設を運河方式にするか、埠頭方式にするかの論争も経て18年の年月をかけ、大正12(1923)年に完成した年代ものである。運河と石造倉庫群、艀など港湾設備を整えた小樽は石炭などの鉱物資源や農林水産物、生活用品の一大集散基地として隆盛期を実現、色内、手宮、堺、有幌、入船、築港地区に金融街、問屋街、倉庫群を形成、日本銀行小樽支店を構えた色内周辺は「北のウォール街」とまで称される繁栄を誇った。
keiji-unga しかし、戦後の時代の変化とともに物流形態の激変が起こり、商都小樽に”斜陽”が訪れる。高速道路を含む道路網の進展、海運業の変化とともに小樽運河の経済活動に占める役割は終え、臨港道路建設のため運河埋め立てと倉庫群の解体計画が登場したのが昭和40年代。そこに「小樽運河と石造倉庫群は小樽の歴史を物語る遺産だ。その景観は小樽の文化財」と訴えて「小樽運河を守る会」を立ち上げ、保存運動に火をつけたのが藤森茂男だった。「全面保存」か「半分保存」かの論争は「半分保存」でピリオドを打ち、今日に至るのだが、埋め立て整備からほぼ30年を経た現在の運河周辺は”観光資源”と姿を変えて「小樽の文化遺産」として画家たちのモチーフとなっている。

 

追記:小樽運河の保存運動の歴史については昭和61(1986)年に刊行された大書「小樽運河保存の運動」(B5判、歴史編533頁、資料編412頁)がある。当時の藤女子大学、小笠原克教授の編著になる。

 

小樽水彩画会 歴代会長の風貌

suisai 戦後小樽の水彩画界の発展に貢献してきた小樽水彩画会の歴史をたどる「小樽水彩画会 歴代会長の風貌」展(3月21日~4月19日)が市立小樽美術館2階展示場で開かれ、美術愛好者の目を楽しませている。1948(昭和23)年、初代会長の宮崎信吉(1896~1966)と会員10人で創立以来その活動は途絶えることなく今日まで66年の年輪を刻み、北海道美術協会(道展)はもちろんのこと日本水彩画会など中央でも活躍する人材も育ててきた。

 水彩画の普及や啓発、会員相互の親睦を深めるための研修、スケッチ旅行、互評会などを重ね、現在は笹川誠吉さん(79)が6代目の会長を務め、会員20人で活動を続けている。

 今回の企画展は初代会長の宮崎信吉から後を継ぐ中島鉄雄(1912~1984)森田正世史(1912~1990)坂東義秋(1925~1991)山本泰夫(1921~1998)そして現在の笹川会長と6代にわたる歴代会長の画歴をたどる全作品43点を展覧した。笹川会長はもちろん健在だが、あとの5人は故人というわけで、その先人の水彩画に向けた意欲とエネルギーを偲ばせる内容となった。

 展示作品は―。宮崎信吉は「婦人像」「川べりの春」「廃船のある漁村」など人物や風景、静物などをモチーフにした11点。中島鉄雄は「小樽港」「初冬(札幌)」「早春セーヌ河」「シャルトル」など7点。坂東義秋は「運河秋陽」「晩秋の街」「雪晴れの造船所Ⅱ」などの大作5点。森田正世史は「サーカス小屋」「妙見市場」「稲穂町夕景」「初冬(毛無山)」「ニセコ晩夏」「秋渓(小樽内川)」など大作、小品合わせて14点。山本泰夫は「残照」「浜の人」の大作3点。そして現会長の笹川誠吉が「石造倉庫」「運河待春A」「マテラ街景」の力作3点である。

 この6人の水彩画家はいずれも道展会員に、そして日本水彩画会員に名を連ねており、本展は図らずも小樽はもちろん、ひいては道内そして中央の水彩画界の戦後の歩みを物語る内容になったと自負している。

谷口明志 インスタレーション 線の虚構

 日増しに春の陽気に包まれる市立小樽美術館2階展示場の特別展「谷口明志 インスタレーション 線の虚構」(1月10日~3月15日)は、ともすれば“難解”と片付けられそうな「現代美術」なのだが、1階の常設記念ホールの「中村善策コレクション名作選 信州」(油彩19点出品、~4月19日)と3階常設記念ホールの「幻視者 一原有徳の世界5 ミニアチュールによる版のいろいろ」(55点出品、~同)の3会場の雰囲気が奇妙に響き合うように思えて、来館者の見応え感を誘っているのではなかろうか。

 小樽出身の谷口明志(道展会員)は1983年北海道教育大学在学中から道展に発表を続け、新人賞、佳作賞、会友賞の受賞歴を経て会員として活躍する道立高校教師(現在北広島高校勤務)だが、公募展のみならず、自ら組織するグループ展「Plus1」では札幌、小樽、苫小牧など道内のみならずニューヨーク、韓国ソウル、大邱、ヴェトナム・ハノイなど海外展でも頻繁に活躍している現代美術家である。今回は生まれ故郷で初めてともいえる本格的な“個展”となり、展示会場をアトリエのようにして文字どおりの最新作品の発表となった。

 「インスタレーション」は「架設展示」と訳され、会場空間をキャンバスに見立てたように壁や柱、床面に合板や針金、アルミニウ線、段ボール、アスファルトフェルト、アクリル絵の具、スポットライトなどを使って作品を仕立て上げる芸術手法である。会期直前の数日は制作の様子も公開された。作品のタイトルは「線の虚構」と「線の解釈」で11点の出品。現代美術家谷口明志自身の制作意図を紹介すると―「(画布は)矩形が当たり前といった既成概念は、現代社会のさまざまな制約に似ているように思えてなりません。暗黙の“みんながこうするから…”といった無用な馴れ合いが作品の可能性を狭めているかも知れないと感じています。同じ作品であっても、置かれる環境によって見え方は変わるはずです。逆にいうと環境が変わると見せ方が変わる場合もあるのです。それが仮設的な作品であるインスタレーションを制作する理由です。展示場がキャンバス代わりと言っていいかもしれません。矩形という制約に変わる制約であり、モチベーションを生んでいます」。kei-tani

 板を継ぎ合わせた8本の“線”が高い天井の壁と床面に張り巡らせた円形の作品を見ていると、それを鑑賞している動く人物も作品の中に取り込まれ、作品化される不思議を体験したものだった。

 1階の風景画の大家中村善策の作品は、中村が戦中戦後疎開生活を過ごした信州の風景の伝統的具象画だが、このホールから谷口明志の2階会場を経て3階の一原有徳ホールに入ると、ここは抽象版画がズラリと展示された一原ワールドの異空間が待っている。手前ミソ覚悟で言わせてもらおう。「この展覧会3点セット、見なけりゃ損々…」。

 最後に期間中の「小樽雪あかりの路」開催中の2月11日、イタリアのセリエAで活躍したサッカー選手中田英寿がひょっこり展覧会場を訪れ(もちろん、お忍びで)、美術家谷口明志とも親しげに「いい展覧会だねェ。ボク現代アート好きなんですよ」と語りかけた。今や「レジェンド(伝説)」といってよい中田英寿氏は、国内はもちろん世界各地の美術館めぐりを楽しんでいるそうだ。

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