市立小樽美術館 市立小樽美術館協力会

KANCHOの部屋

禍中閑話(3) 耳も節穴 目も節穴 「作曲家とアニヴァーサリー」

 節穴放談の続きである。

 ウォルフガング・アマデウス・モーツァルト(17561791)は最も好きな作曲家である。私はその音楽を、十代前半の若い頃から、指揮者のカール・ベーム、アマデウス弦楽四重奏団、ピアノのバックハウス、ギーゼキング、内田光子、歌手のプライ、シュライヤー、シュワルツコップ、マティス、ルートヴィヒなどの演奏で親しんできた。その後、古楽器演奏が盛んになって、アーノンクールやホグウッドなどの演奏も聴いたが、結局は頭に刷り込まれたベームらの演奏に戻った。そして現在は古楽器も現代楽器も入り混じって多彩な演奏が生み出されている(アバドとアルゲリッチのピアノ協奏曲、シュタイアーのピアノ・ソナタなどは素晴らしい)のだが、聴いた限りでは、モーツァルトの音楽が包み込んでいる秘石の輝きに届く演奏は多くはないようである。もちろん良い演奏は多数存在し、好みの問題もあるから一概には言えない。それに幅広い演奏解釈を受け入れるのが名曲の器(うつわ)というものだろう。

 ということなので、ここでは演奏の個人的趣味を語ることにする。ベームの演奏の良さをいうなら、落ち着いたリズム感と率直で衒いのない表現ということになり、個性も味付けもない感じがするが、実はそれがモーツァルトの音楽そのものが持つ劇的な味わいや遊びの精神を、充実した響きでストレートに伝える独自の演奏となっているのが不思議である。厳しい練習でも知られた彼の指揮は歌劇でも管弦楽曲でもモーツァルトの音楽の特性を強調せずに自然に引き出している。音楽は引き締まり、深みと豊かさを湛えた響きと旋律が湧き上がる。このような指揮者は稀だと思う。

 ところで、モーツァルトの全800曲(ザスロー他編『モーツァルト全作品事典』2006)とされる作品のうち、少なくとも半数は名曲であり傑作だと思っている。耳が節穴の私が言うのだからアテにはならないが・・・これだけを繰り返し聞いていても一生飽きないだろうという数である。もう一人の天才、J・ハイドンを別格とすれば、同時代の作曲家たちが束になっても及ばないレベルではないか?

この18世紀後半の古典派の時代、交響曲(シンフォニア)や協奏曲、舞曲、室内楽、各種楽器のソナタ、そして歌劇やコンサート・アリア、歌曲、ミサ曲、モテットなどは星の数ほども作曲されていた。一人の作曲家が各ジャンルで数十曲作曲するのは当たり前のことだった。モーツァルトは多作だがそれは彼だけではなかった。ヨーロッパ各国の朝廷や貴族、そして教会に仕えた多数の演奏家兼作曲家によって新作が次々と作曲され披露されていた。量産ぶりは現代のポピュラー音楽と同じである。今日では演奏されない楽譜は膨大で、各国の図書館などに眠っている。モーツァルトと生前交流があったり、影響を受けたりしていた同時代の作曲家(別格のJ・ハイドンを除く)では、JC・バッハ(JS・バッハの息子、末子)、M・ハイドン(J・ハイドンの弟)、ミスリヴィチェク、ヴァンハル、カンナビヒ、サリエリなどである。また、モーツァルトと時代の重なる人々としては上記のほかにもボッケリーニ、グルック、チマローザ、ケルビーニなどの大物から群小作曲家までド素人の私が名を知っているだけでも相当な数になる。これは秘曲探しの趣味として手ごたえ十分なのでCDLPを収集中である。似たようなプログラムの多い日本の演奏会では全くと言っていいほど取り上げられない佳曲が多数ある。なんともったいないことか。名曲と秘曲を組み合わせた演奏会をもっともっと増やすべきではなかろうか?

さて、昨年(2020年)は、ベートーヴェン(1770~1827)の生誕250年であった。コンサートなどは世界的に制約される状況が続いているが、CDなど音楽産業のほうは活況であった。ベートーヴェンは、聴けば感銘するけれども、それほど好きな作曲家ではないので静観していたが、たくさんの交響曲全集などが発売されたようである。こうしたアニヴァーサリーの準備は数年前、時には10年以上前から取りかかるようだ。美術館の展覧会でも大掛かりなものは5年以上の準備期間を要するが、作曲家の場合、例えばJS・バッハ(1685~1750)の200曲を超えるカンタータ、J・ハイドン(1732~1809)の106曲の交響曲などは、相当の時間をかけて地道に演奏を練り上げ録音していくしかない。生誕300年の2032年に向けて録音が始まったハイドンの交響曲全集プロジェクトは私も購入し続けているが、およそ15年がかりの構想である。まあ、何と気の長い話か。というより全集完成時に私は生きているだろうか?・・・できれば生きていたいものだ。欲を出すとモーツァルトの没後250年の2041年も可能だろうか。過去にはモーツァルト全集もいくつか出たが・・・生誕300年の2056年はとても無理だろう。生きていれば私は101歳である。

こんな愚にもつかぬことを考えているうちにどんどん時間は過ぎ、引きこもりの退屈もまぎれるのである。

新明 英仁

禍中閑話(2)耳も節穴 目も節穴

 私の場合、仕事でも趣味でも、芸術文化に対していろいろなものに目や耳を研ぎ澄ませてきたつもりだが、あくまでもそれは「つもり」であって、見落とし、聴き落とし、読み落としが膨大な数になっていると感じている。過去の芸術作品は膨大で物量的に太刀打ちできない。それをカバーしようとしても、ただ数を「こなす」だけでは魅力に気づくこともむずかしい。鑑賞の質が大切なのである。年を取って、以前よりは少し精神的余裕と冷静さを持つようになると(これは自己診断なので心もとないが)、若いころから多数の関心を持つべきもの、感動すべきものを見落としてきたことに気づくようになった。まあ、これは鼬ごっこで、もっと年を取れば、現在も見逃しているものに気づくのだろう。

 仕事で疲れきって展覧会を見ても、作品に対して能動的な反応をすることは難しい。眠いのに本を読もうとするのと同じである。音楽だけはBGMのようにしておくこともできなくはないが、やはり疲れていれば脳は反応しない。心身ともに元気という状態は若い頃から持続せず、幻想と妄想と眠気にとらわれて注意力散漫な状態が続いた。学校生活や社会生活そして恋愛はとても大変で疲れるのである。と言っても、複雑な現代社会であれば誰しも同じなので弁解の余地はない。やはり、私の脳みそに大きな節穴があったのだ。

 節穴が良いこともある。霧のようにかすんでよく見えなかったもの、疲れて余裕がなく感じ取ることができなかったものが、大げさに言えば突然、啓示のように焦点が合ってはっきり見える、ということがたまにあるからである。この時の新鮮な感動は他人には語りつくせないものがある。知らないこと、気づいていないことが多ければ多いほど、この感動の確率は上がる(?)かもしれない。そして、まだ自分が成長していると錯覚し、自己満足できる。

 最近頭の中で焦点が合った体験と言えば、少し前にこの欄でも書いたが(6 埋もれた画家)、小樽ゆかりの船樹忠三郎という無名の作家である。自分の勤める美術館で、その小さな作品のみせる才能のきらめきに突如として焦点が合ったのだ。惜しむらくは、中途で画業を断念しなくてはならぬ事情があったことと、現存作品がきわめて少ないことだ。

もうひとつは諏訪湖旅行で訪ねた茅野市尖石縄文考古館の「縄文のヴィーナス」(土偶)である。同館には「仮面の女神」(土偶)もあり、どちらも国宝である。「縄文のヴィーナス」は図版では知っていたが、寸法(高さ27cm)以上に大きくたくましく感じられる妊婦の像である。前から見ても横から見ても面白い。この豊かな量感表現はどんな彫刻家にも真似できないような原初的な力がある。

そして裏側に回って驚いた。普通、ウラは図版では見られない。

頭にかぶっている帽子らしきものの上部がスパッと平たく切り取られたような形で、そこに大きく渦巻き型の模様がはっきりと形作られている。これは当時の帽子のリアルな描写なのか、それとも妊婦や出産を象徴する記号なのかよくわからない。勝手に解釈すると、これは出産間近の妊婦をあらわす記号ではないかとも思う。というのはこの渦巻き、グルグル模様は他の妊婦を扱った土偶でも、もっとあいまいな形ではあるが見られるからである。とすれば我々は時を隔てて、記号の誕生の時代に立ち会っているのである。ともかくも、この諏訪湖周辺は縄文遺跡の宝庫で、まだ面白いものが見つかるのではないかと期待してしまうところである。

 さて、専門の話は書けば書くほど、余計なことを知っている弊害が出て、ややこしくなるので、気楽に趣味の音楽と文学の話にしようと思ったが、これはこれで長くなるので次回以降にとっておこうと思う。

なにはともあれ、これからも長く「節穴」だらけの人生を楽しみたいものである。

新明 英仁

禍中閑話

二番手は一番手と同格である、と思うことがある。スポーツや学校の成績の話ではない。芸術家のことである。
話したかったのはモーツァルトとハイドンのことである。現在の日本では、この二人の認知度は相当違う。「モーツァルト=神童」、として誰もが知るところだが、ハイドンのほうは、親しみを込めて「パパ・ハイドン」と呼ばれていても、ハテと首をかしげる人が多いだろう。この二人は親交があったけれども、年齢はハイドンのほうが24歳も上である。モーツアルト(WAMozart 1756~1791)は35歳で亡くなったが、ハイドン(FJHaydn 17321809)は長生きであった。二人は互いに尊敬しあい、音楽も相互に大きな影響を受け合った。これは天才同士に通った心の機微であり、年齢を超えた二人の友情はそう簡単に理解できないかもしれない。
私はこの二人の音楽を聴くことが多い。そして相当に充足し、心が落ち着く。モーツァルトの音楽は一般に天衣無縫とされる。ハイドンはというと、同じ四字熟語で、創意衝天とでもしておこうか。二人とも天に届くほどの天才で、その違いは認知度だけであると思う。両者とも作曲ジャンルは、オペラ、宗教曲から声楽曲、交響曲、協奏曲、室内楽、器楽曲まで全般に及び、どの分野でも他者の追随を許さない独創性を持っている。ハイドンには「驚愕」「軍隊」などニックネームのついた交響曲が有名だが、ニックネームのない交響曲にも多数の名作がある。しかも、交響曲ばかりに注力したのではなく、宗教曲(ミサ曲、オラトリオなど)や室内楽(弦楽四重奏曲など)に相当念の入った名作がある。
 昨今の情勢は、この二人の音楽を聴きこむのに良い機会である。
 先般入手した交響曲全集のレコード(演奏:アンタル・ドラティ指揮フィルハーモニア・フンガリカ 全106曲+αLP48枚 録音196972年)を全曲聴き終わったが、その天才に改めて敬服した。演奏も見事だが、さらに付属していた解説が素晴らしいのに驚いた。それを書いたのはロビンス・ランドン(HCRobbins Landon 19262009 米)という著名な音楽学者で、モーツァルト関連を含め多数の著作・研究がある。ハイドンのすべての交響曲に言及し、正確に数えていないが日本語の翻訳で400字詰原稿用紙1000枚はあるだろうという労作である(翻訳:岩井宏之ほか)。しっかりとした文献に基づいたものであるのは当然だが、何よりも音楽に対する共感に富んでいる。というより、一曲一曲ハイドンの音楽の持つ魅力を訴えかけてくる強い力を感じるのである。それは資料的な情報ではなく作品の音楽的内容から発したものである。したがって読みながら聴くほうも音楽の未知の魅力に触れることになる。音楽と美術、分野は異なるが、我々も大いに参考とするべき解説である。果たして自分の企画した展覧会のすべての出品作品にこのレベルの解説を書くことができるだろうかと自問自答しなくてはなるまい。
これで思い出したのだが、小樽ゆかりの吉田秀和(19132012)に素晴らしい美術評論があったことである。吉田は音楽評論家として著名だが美術や文学にも深い造詣を持ち多数の著作がある。その一つ『トゥールーズ・ロートレック』(中央公論社 1983)を読んだのは30年以上前のことだが、作品の内容に恐ろしいほど深く切り込んだ説得力のあるものだったという読後感は鮮烈に残っている。つまり、一般的な解説にありがちな、作家の経歴や影響関係、作風や人柄などを適度に盛り込んで要領よくまとめたものなどとは、次元が違うのだ。すぐれた作品の本質にせまるには、作品の表現内容に深く分け入る必要がある。外部情報を解説するのではなく、まず作品そのものの中身から読み込むべきなのである。作家の経歴や作風などを覚えていい気になっていた当時の私にとって、これは強烈な刺激であった。お前の専門が「美術」だなどと言えるか!・・・お前の言うことなどオヨビデナイ、チャンチャラオカシイと言われているも同然だったのである。
したがって、作品解説に当たるとき、非才の身ながらも、なるべく作品の魅力や特色から書きはじめるようにしている。この方法は美術作品に新鮮に向き合えるのがいい。小さな発見をする場合もある。なるべく他者の評価や作家の人柄などの先入観がないところから見るよう努力する。ナントカ勲章や人物の社会的地位などを単純に反映して作品を安易に評価したりしないように留意する。芸術の場合、人脈や勲章で著名になっても、没後には役に立たない。
最後に勝負できるのはナマの裸の作品である。美術でも音楽でも芸術作品の魅力の一つはそこにある。

新明 英仁

 

クマとオニ(立春に因んで)

昨春、私の家の裏にある住宅の玄関先に、驚くほど大きい鳥が舞い降りて何かを食べているのを妻が見つけた。猛禽の仲間のようだが、こんな住宅街に住みそうな鳥ではない。窓からしばらく見ているうちにカラスが何羽か威嚇するように集まってきたが、その鳥は歯牙にもかけない。王者の風格である。カラスも全く手を出さない、というより出せない様子である。これは千載一遇だとあわてて鳥の図鑑を調べてみたのだが、それは「クマタカ」だった。後で聞いた話では、近くの公園に留まっていたようだ。

 ともかく、「クマ」と上につく生き物は、強い、大きいというイメージである。

一昨年、旭川郊外から大雪山へ向かう林道で昆虫採集をしながら車で移動していたとき、大きな黒い鳥が木にとまっているのを見た。頭が赤い。クマゲラだ、と思ったときには飛び去ってしまった。クマタカほどではないが、かなり大きい。問題はそのあとだった。目的の場所で車から降り、周囲の樹木などを見ていたところ、笹薮からこちらに近づいてくる大きい動物がいる。姿は見えないが、ごそごそと音をたててゆっくり歩いて来る。この場合、相手の選択肢は3つある。ヒト、シカ、そしてクマだ。咳払いをしてみたが何の反応も無い。私は最初の二つの選択肢を打ち消すと、急いで車の近くへ戻り、ドアを開けて出現を待った。林道へ出てきた姿を確認したとたん私は乗り込んでドアを閉めた。距離は十数メートルほど。向こうはこちらを襲うつもりは無かったらしい。あっという間に茂みに消えた・・・・。

というわけで、同じ日に二度の「クマ」体験をした。どうやら私はクマと名のつくものにまんざら縁が無いわけでもないらしい。しかし、人生は何事も経験とはいえ、野生のヒグマだけは遠慮したいし、今後の遭遇は避けたいものだ。後日、熊よけグッズを増強した。

話は転じて、クマと同様に大きいことや強いことを表わす言葉に「オニ」がある。当たり前の種類はともかく、私的にマニアックなところでは、オニホソコバネカミキリ(鬼細小翅髪切)など。オニクワガタ(鬼鍬形)は小さいクワガタだが、大あごの形から名付けられたそうだ。むろんオニとは言っても所詮は昆虫であり節足動物であるから、怖がるほどのことはない。このほか、鬼刑事、鬼監督、鬼手(将棋)など変異種も存在し、岩手県北上市には「鬼の博物館」もある。

「鬼」には、死者の魂や怨霊の意味もあるが、やはり妖怪としての鬼を連想することが多いと思う。畏怖の対象であり、さまざまな文学や物語で取り上げられてきたので、鬼退治、鬼に食われる話、鬼に変身する話、地獄の鬼の話など際限が無い。絵なら古くは「地獄草紙」「百鬼夜行絵巻」「大江山絵巻」等から浮世絵、そして漫画・アニメ・ゲームまで、大量のイメージが今も生み出され続けている。また、外敵や権力に従わない者を鬼と見立てることも行われた。鬼とされた大江山の酒呑童子も山賊ないしは朝廷の権力に刃向う一族であっただろうし、「蒙古襲来」を描いた絵巻の中には、元軍の兵士を鬼のように見立てたものがある。厄介者扱いされる方から見ればこちらが鬼である。

ところで「オニクマ」なるモノが存在したそうだ。「鬼+熊」であるから、最強である。これは江戸時代の妖怪画集『絵本百物語』(竹原春泉斎・画)に掲載されているモノであって、その詞書によると、牛馬などの家畜を襲う大きくて凶暴な熊のことであるらしい。絵もユーモラスだが熊に近い姿で描かれている。要するに、妖怪ではなく実在したのであろう。

さて、この収拾のつかない漫然としたエッセイを強引に締めくくるに当たって、紹介しておきたいのは鬼才として知られる狩野芳崖(かのうほうがい)の「仁王捉鬼図」(におうそっきず)である。仁王さま(=金剛力士=仏法の守護神)が、鬼を捉えてひねりつぶしている。仁王さまは迫力のある姿だが、その大きな手に摑まれた鬼の目玉が飛び出していて何ともユーモラスである。芳崖は、幕末明治初期の最も才能豊かな日本画家で、その作品は奇抜な発想にあふれている。重要文化財の「悲母観音図」だけが良く紹介されるものの、もっと一般に知られて良い画家である。

ということで、熊を避け鬼を退治したところで、今回は筆を措く。(2020.2.4

新明 英仁

「北方的」な芸術とは?

 北欧にはシベリウス、グリ-グ、ニールセン、アルヴェーン、マデトヤなど魅力的な作曲家が多数いる。中でも私はシベリウス(1865~1957)のファンであり、とりわけ交響曲第7番(1924年)が好きである。シベリウス最後の交響曲であり、交響曲とは言っても単一楽章で、演奏時間も20分程度と短く、内容的には幻想的な交響詩というような曲である。ブルックナーやマーラーの壮大な交響曲とは全く方向が異なって、簡潔である。しかし、その表現するものは限りなくといっていいほど奥行きが深いと感じられる。印象的な主題がいくつかあって、それが複雑に溶け合うように展開する。具体的な自然現象を思わせるような描写は全くない。音楽を言葉で表現すると徒労に終わることは承知の上で書き続けるなら、最後の一音が消えていったとき、私の感覚は遥か彼方へ開放され、静寂な空間がどこまでも広がっていくようで、深く心が動かされるのである。

 シベリウスは、この曲で故国フィンランドの自然と歴史と自らの人生を反芻し、すべてを語り尽くしたと感じたのかもしれない。その後も交響詩「タピオラ」(これもすばらしい)などが作曲されたが、まもなく彼は引退し、ほとんど書き上げていたと言われる交響曲第8番をはじめとする多数の楽譜は人に見せることなく破棄されたそうである。自作に厳しいのはやむをえないが、なんともったいないことだろうか。

 ところで、このエッセイで考えたいのは「北方的」ということである。シベリウスの音楽は西洋の作曲家中では最も北方的に感じられる。いや「北欧的」というべきかもしれないが・・・それは彼の多数の作品で感じられるのだが、どうしてそう感じられるのか。旋律なのか、和声なのか、リズムなのか、その全部か・・・単に北欧フィンランドの作曲家としてのシベリウスの存在が頭に刷り込まれているからそう感じるだけではないのか?という疑問も湧いて来るのである。

 絵画をそれに例えるなら、北国出身の画家による故国の風景や民俗を多く使った作品であるというようなことになるのだが、この単純な条件に該当する画家は非常に多数いるだろう。多くの北欧出身の作曲家も同様で、単に故国の民謡を主題にしているからというような理由では回答にならないのである。ローカルをグローバル化する力というべきか、群を抜いた芸術的才能によって、地域の文化を高次元で昇華し国際的に認知させる力が必要であろう。また、シベリウスの場合がそうであったように、国民的な芸術が要求される時代に生きたことによる民族的、政治的な背景も大きな要件である。さらに、フィンランドにおける『カレワラ』という神話的叙事詩の存在がシベリウスにとって大きなものであったように、民族や国家の持つ過去の神話や芸術も大きな意味を持つ。

 ということなので、「北方的」であることを考えるのは容易には収拾のつかない問題なのである。私にとって身近なところで考えるなら、「北海道的」という表現もある。「北方的」「北欧的」とある程度重なるイメージがある言葉である。代表的な作家としては、片岡球子、砂澤ビッキ、難波田龍起などで使われている例があったように思う(他にも用例は無数にあるが)。これらの作家は北海道ゆかり、あるいは生まれであるという以上に作風に大きな関連性は無い。おのおの極めて個性的な世界を持ち、影響関係もほとんどない。

 上記の3人は私自身も作家論を書いたことがあるのだが、「北海道的」あるいは「北方的」という言葉に関しては極めて慎重に扱った。というのもこの言葉の感覚的な使用が各作家のローカル性を強調し存在を矮小化してしまうことになるのではないかということ、さらに各作家の個性を表現する適切な言葉が見つからないので逃げ言葉として使ったように見えるのではないかということであった。彼らの作品は広く日本文化の視点から複合的に考えるに足るだけの内容を持っているのだから、そんなことをしては礼を失するのである。

 ただし、堂々巡りになるが、北方的な要素は彼らの作品に間違いなく存在すると思う。鑑賞する場合ならそれを何となく感じればよい。ところが解説や文章を書く我々の場合は、その内容を具体的で複合的な視点から説得力のある議論を展開できるか、ということにかかってくる。これはなかなか難しいので、情けないが逃げを打つことになることも時にはあるわけである。鋭い読者なら、そんな手抜きで腑抜けの文章はすぐに見透かされてしまう。作品の本質に迫る努力が要求されるのである。

新明 英仁

学生時代

もはや40年以上前のことになるが、私は念願かなって仙台市の土を踏んだ。東北大学の文学部に一浪で入学したのである。親元の旭川から離れて遠く仙台の一人暮らしの毎日は夢のように楽しかった。勉強は全くしなかったが、大いに遊んで青春を謳歌した。結果的に一年留年して卒業したけれども、どうして卒業できたかは未だに謎である。

現在の大学生は勉学に就職活動に、いろいろと忙しいようだ。大学に集中講義などで出向くと少しはその様子がわかる。出席率極めて良好。そして、自分の学生時代と比較して気の毒になる。世の中が以前よりシステム化してしまっているのだ。枠に嵌められると抜け出すのが難しい。勉学や就職でいろいろ努力することが求められても、若者なら反発する気持ちも起きるだろう。もっと伸び伸びと育てたほうが後年になって良い効果が現れるのではないか。

さて、自ら選んだ文学部に入って驚いたのは、文学部が実にさまざまな人間の集まりであったということである。文学といえば、国文学か英文学か、詩人・小説家か文芸評論家かという世界であるように思っていた私は、「文学部」の具体的内容に驚いた。つまり、その時点では頭の片隅にもなかった美学・美術史をはじめとして、哲学、心理学、社会学、考古学、歴史学、民族学、言語学などの専攻を幅広く包含するものであった。これは受験生の常識に近いことであるはずなのだが、それさえも知らないで入学した田舎の小僧であったわけである。さらに受験は終わったのに大変真面目に勉強する学生が多いのに驚いた。語呂合わせにもならないが、「ブンガク」とは、「バンカラ」なものである、という私の考え方は、多彩な友人たちとの交流によって、少しずつ変わっていった。つまり、世間の広さを知っただけ少しはマシな人間になったということである。

とはいえ生活ぶりはといえば、1年生の最初の学期だけは少し勉強したが、それ以後はマージャンにのめりこみ昼夜逆転の放漫さであった。一方でギリギリの線で単位を落とさない術も身についた。出欠を気にしない先生の講義を多く取り、試験勉強だけはそれなりにして単位を取るという、オーソドックスだが、おそらく今は通じない手法である。私の友人といえば類は友を呼ぶ状態で、反骨型、はみ出し型の不勉強な仲間が多数出来た。後日、どういう訳か、彼らの多くが大企業や自治体の研究職員(大学教員や学芸員を含む)として、しっかり就職したのは不思議なことである。卒業当時(1980年頃)は、文学部などはお呼びではないといわれるほど就職難の時代だったからである。

ところで、大学の教養部の講義は、たまに出席しても退屈なものが多かった。講義の多くは大教室である。教壇で頭を掻きむしりながら外国語の文献をその場で翻訳して延々と読み上げる先生、自分の原稿を時間いっぱいにゆっくり読んで学生に筆写させる先生、講義の半分は自分の留学時の四方山話という先生、黒板に向かってブツブツと小声で何も聞こえない先生など個性的ではあったが・・・大体そんなものであり、のんびりとしていた。実際には、味のある教官の方々であったのだろうと思うし、そこには現在は失われた大学教育の寛容さが隠されていたのではないかと思われる。

私の生活は、入学して2年後に専攻することになった東洋日本美術史の研究室に入ってからも、大同小異であった。しかし、たまにしか顔を出さない研究室で、講義では見せない、担当の先生の鋭い見識に何度も接することが出来たのは幸いであった。物静かな先生であったが、私へのご叱声も含め、今でも心に残っているお言葉がいくつかある。私のような不肖の輩がここでお名前を挙げるのも畏れ多いが、伊藤若冲など奇想の画家を研究し世に送り出したことで知られる日本美術史の辻惟雄(つじのぶお)先生である。美術史の研究に関する先生のお言葉は、美術館の学芸員となって以後、30代、40代と年を重ねるにつれ、じわじわと効いてくる含蓄に富んだものであった。これこそ真の意味での大学教育だったのではないかと思う。

 

                                  新明 英仁

初夢:恐竜と美術館・博物館

子供の頃から好きだったもののひとつが恐竜である。恐竜の図鑑を読み込んで、名前や特徴、生きていた地質年代などを覚えていた。映画では、「キングコング」(1933年制作 多数の恐竜が登場する)、「失われた世界」(初映画化は1925年、コナン・ドイル原作1912年)、「地底旅行」(初映画化は1959年、ジュール・ヴェルヌ原作1864年)などがテレビで放送されるたびに繰り返し見ていた。これらSFの原作を集中的に読んだ時期もある。何しろ50年以上も前のことであるから、CGを駆使した「ジュラシック・パーク」(マイケル・クライトン原作1990年、1993年映画化)のような映画が作られるなど想像もできなかった。また、この恐竜趣味と一部重複したのがゴジラ趣味であった。
ところで、その頃の古い図鑑に紹介されていた恐竜の特徴は、爬虫類であり、大きいが鈍重で、知能も低いというものであった。絵に描かれている恐竜はいずれも尻尾を地面に引きずり、足も胴体も太くていかにも動きが遅そうだった。これらの絵や解説は何となく子供心に不満だった。後から思うにこうした考え方は、人類があらゆる生物の中で最も優れており、人類の属する哺乳類は爬虫類である恐竜よりも優性であるという固定観念がまとわりついていたのではないかと思う。特に先進国における大勢として、人類は万物の霊長であり、最も優れていて自然を意のままにできる、という増長した気恥ずかしくなるような万能思想が背後にあったと思われる。

恐竜に関する研究は、この50年間に飛躍的に進歩した。絶滅の原因や生態の復元に説得力のある仮説が次々と立てられている。中でも、そうした仮説の嚆矢となった、恐竜は活動的(恒温動物説)で社会性もあり知能も高いとするR・バッカー(アメリカの恐竜学者)の『恐竜異説』(1986)を読んで驚き、さらに鳥類は恐竜の進化したものであるという考え方が出たのには驚愕した。ニワトリは恐竜の子孫なのである。これらの説は、人類万能という思考回路が近年になってかなり変質し、自然に対して少し謙虚になったのと関連しているのではないかと思う。調べれば調べるほど未知の発見が多く人類にも示唆するところがあるのが古生物学のようである。
ところで、何を書きたいのかというと、『恐竜異説』を読んだとき、これならば恐竜を主人公にした小説を書く人が出る、と無能な人類である私は思ったのである。ところが、バッカー本人が既にそれを書いていた。しかも面白い。さすがである。もうひとつあるが、美術館での展覧会、これも実現可能だろう・・・というのは、恐竜の復元は、羽毛がある種類もいるので極彩色のものもいたのではないか、象の鼻やトサカのように化石になりにくい部分があるのでそれを想像して補うとどうなるか、子供と大人では体の模様が違っていた可能性があり、雄と雌にも違いがあり発情期には体の色が赤くなったり青くなったりしたのではないか・・・・などと延々と想像してしまうからである。なにしろ恐竜は美しい羽を持つ鳥の先祖なのだから。CG、造形、絵などを手がける恐竜アーティストは多数いるのでアートとして美術館で紹介することが出来る。SF文学や恐竜の表現の変遷や映像史を紹介し、当時の生息環境を再現し、トリッキーな要素を加え、恐竜を取り入れたデザインやおもちゃを紹介し、パフォーマンスやインスタレーションで現代美術家も加わる、というものである。いわば美術を含む「博物」を総合した恐竜展である。私が思い付くくらいだから、既にいくつかの展覧会は開催されているかもしれない。しかし、美術館と博物館の恐竜好きな学芸員や研究者が本気で協力し合えば、本格的なものが出来上がるだろうと思う。
恐竜は科学博物館や自然史博物館の枠内で紹介されてきたものである。それに美術館が加わったらどんなものが出来るか見てみたいものだ。近年の恐竜映画は面白いが、多くの場合、科学的知見が生かされているとはいえ、メインストーリーは恐竜と人間の追い駆けっこか恐竜同士の戦いのドタバタ劇に終わっている。もっと自然で多様な恐竜の姿を想像し考えてみたい欲求に駆られる。
本来ならば科学と芸術は友人であり、協働すれば面白いものが出来る。しかし、現実には美術館と博物館の間の専門的、心理的距離は意外に遠く、接触する機会も少ない。博物館は物(化石、標本、道具など具体的なもの)が語る事実を知り、歴史、民族、自然、技術などについての理解を深めるためにあるが、美術館は物(芸術作品)を通じた鑑賞というところに主眼が置かれる。両者に物を集め保存するという共通点はあるが、「鑑賞」には博物館的な考え方でフォローできない抽象的で情緒的なところがある。恐竜に限らず、両者の協力が簡単に実現しないのは残念である。そこには展覧会の大きな発展性と可能性があるのではないか?・・・だが、もし企画するとして、予算は十分だろうか!・・・夢から現実に戻れば恐竜と美術館の距離は実に遠い。

                                  新明 英仁

奄美(南西諸島)と自然

 夏が来ると、いつも思い出すのが奄美旅行のことである。最初の旅行は20年ほど前になる。そして南西諸島への旅行が病みつきとなり、奄美大島に4回、徳之島に3回、石垣島に2回と立て続けに旅行した。目的は言うまでもなく昆虫の採集である。その成果は年によってまちまちだが、平均的に見てまあまあであるとは言えるだろう。

 むろんここで書くのは虫採り学芸員の自慢話ではない。それらの島々の美しさについてであり、その次に絵の話である。

最初の奄美旅行で名瀬空港に着陸する前に見た青緑に輝く海の色、それは、今でも自分の記憶の中で最も美しいものとして記憶に残っている。そして車の窓から見た白い海岸線と山と海が織り成す夕景もそうである。最初に宿泊した奄美の民宿(当時の住用村和瀬地区)は、海沿いの小さな湾の小さな集落にあり、商店は1件しかなかったが、青く美しい珊瑚礁が目の前にあった。民宿の人がそこから漁をした魚が毎日のように食卓をにぎわした。

朝、早起きして民宿の前の道に出ると、未明の薄暗い光の中、海の方角から多数の大きな蝶が飛んでくる。道端のハイビスカスの花に集まるものもあれば、内陸へ向かうものもある。その蝶の中には、熱帯低気圧に乗ってはるか南方から海を渡ってきたと思われるものもいた。「海洋を渡る蝶」といえば、画家三岸好太郎(みぎし・こうたろう 札幌市生 油彩画 1903~1934)の絵が知られているが、例えば谷文晁にも群蝶が海を渡る図があったので探せばいくつかありそうである。三岸の絵は、すばらしい作品だが、飛んでいる蝶(蛾も含む)からみて想像の産物である。私が見たのは、その現実版であるが、幻想的で今でも夢見るように思い出すことがある。また、徳之島には沖合いで戦艦大和が沈没したため、海沿いにその慰霊碑があるのだが、その海岸線の長く白く美しいこと、まばゆくて正視できないほどであった。

この奄美大島と徳之島には猛毒のハブが棲んでいることはご存知と思う。何人か知り合った民宿の素敵な「おばさん」を含め、現地の人でハブの恐ろしさを語る人は多いのだが、自然の中で実際に見たことのある人は少ないようだった。私は、夜間に林道に入ることもあるので、不意に出くわさぬよう常に気をつけていた。そしてかなり大きいものも含めて何匹か見かけた。彼らは自衛のために人を襲うのであって、必要以上に近づかなければ何事も起こらない。むしろ音を立てて近づけば逃げていく。奄美や徳之島の人々は、山林を避けて自然に遠慮するように海沿いに集落を作って生活している。これも自然との不要な衝突を避けるためだったという話をどこかで聞いたことがある。

余計なことに話が飛んだが、奄美の画家といえば近年再評価が進んだ田中一村(たなか・いっそん 日本画 1908~1977)がいる。現在奄美大島には彼を記念した美術館があるが、それが出来る以前の1995年、道立旭川美術館で学芸課長をしていたとき「田中一村展」の巡回展会場に加えてもらう機会に恵まれた。画壇を遠く離れて奄美で本格的に才能を開花させたこの画家については多くの人が語っている。私がその作品に関心を持ったのは、彼の作品が花鳥画中心であり、その中にイシガケチョウ、ツマベニチョウなど南日本(西日本)にしか生息しない魅力的な蝶が描かれていたからでもあったが、それ以上に、生命のかたちを色彩鮮やかに浮かび上がらせる南西諸島特有の自然、光、空気の力が、一種の活力と熱気をもって画面に封じこめられていたからではないかと思う。

このような作品を描くのは、旅行や短期滞在では到底不可能である。そこの住人となって生活し自然に入り込む必要がある。というより、これこそ画家のあるべき姿なのでないか・・・便利な大都会に住んで器用に描き名前が少しは知られたとしても、本当にいい作品が描けるのだろうか・・・という絵画の本質に関わる問題にもつながるだろう。ある土地に長く住んで特有の風土を余すところなく描いた作家を私は何人か知るが、彼らの作品では、流行も虚飾も抑制され、描く対象に対する没入の中から個性的表現が深く滲み出てくるようになる。したがって毎年見る四季の自然の美しさと同様に見飽きることがないのである。

新明 英仁

怪談・絵画と文学

「これは実際にあったことである。」・・・と書き始めて恐ろしい体験談を語ることができるのなら良いが、残念ながら、そのような経験はない。

しかし、若い頃は、無闇と暗がりや離れた場所にあるトイレが恐ろしかった。その上、ポオやハーンの著作を読んで、勝手に怖がっていた。これは子供の頃の又聞きの又聞きだが、ある病院の長い廊下で夜中に看護師が患者さんとすれ違ったので互いにあいさつをした、あとで思い返すと、その患者さんは昨日亡くなった方であったというのである。ありきたりの話だが、このような話を聞くと、私は震え上がり、病院がとても恐ろしいものに思えてきた。病院でなくとも、日中はたくさんの人が出入りしているのに夜になると閑散として人っ子ひとりいなくなるようなところ、たとえば夜の学校などは、建物が新しくてきれいでも、やはり恐ろしい場所である。

この「恐怖」の源泉はどこにあるのだろうか。私の場合、年齢を加えるにつれて、以前ほど幽霊や妖怪は怖くなくなった。今でも一番怖いのは「闇」である。一寸先も見えないような漆黒の闇である。明るさに慣れた現代では、なかなか出会えない闇である。

趣味の昆虫採集で、夜行性の虫をさがすために森の中で夜中に一人だけという体験は何度かあったが、それは「えもいわれぬ」恐ろしさであった。昔の人が闇の中に百鬼夜行を想像した心理が少しはわかるような気になる。闇の中では人間の感覚は非常に鋭敏になり、いろいろな想像に頭の中が掻き乱されるからである。

さて、怖い物好きで怖がりの私が、美術館で一度開催してみたいと思ったのは、幽霊・妖怪画の展覧会であった。結論から言うと、これは実現しなかった。というのも、頭の中であれこれ考えているうちに、ほかの美術館で開催されてしまったからである。それは内容のかなり充実した展覧会であり、二番煎じはつまらないということで、企画は頭の中で立ち消えになった。とは言っても、いろいろと考えたり調べたりしたことが役立つことはあるだろうと思っていた。

やがて、その機会は到来した。一時、美術館から北海道立文学館に異動した時に「怪奇幻想文学館」という展覧会を企画開催することができたのである。ほぼ半年間の準備で開催にこぎつけたが、これが美術館の展覧会であれば、準備に3年はかかっただろうと思う。というのも、美術館は「実物の展示」が基本であるからだ。作品の出品交渉や実物の調査に非常に時間がかかるとともに、作品の借用、返却、保険その他にかかる煩瑣な事務手続きも多い。物量も大きいので必然的に予算も多くなる。予算や交渉の成り行きによっては出品をあきらめざるを得ない作品が出ることもある。これに比べると、文学館の展覧会は、資料(多くの場合書籍や書簡、自筆原稿など)の借用は、手持ち輸送か貴重品扱いの郵送で済む場合が多いし、展示は文学作品からの「部分引用」を活用すればよい。しかもこの展覧会に出品したい資料(書籍など)は、ほとんど道立文学館と私の手元にあった。煩瑣な事務が少ない分、もっとも大切な展覧会の内容に集中できるのである。ただし、ゴマンとある怪談の読書と整理には相当な時間がかかった。

ところで、展覧会の準備中、ある大切なことに気づいた。怪談と妖怪画、両者互いに深く関連するが、実は本質を異にするということである。

日本の場合、実在するとして恐れられていた妖怪や幽霊は、室町時代から江戸時代にかけて次第に絵画化され、キャラクター化していった。江戸時代に膨大な量が描かれたそれらの絵画の多くは、歌舞伎等の怪奇シーンをもとにした浮世絵と読本や黄表紙などの文学の挿絵であり、庶民はそれを怖がるよりも楽しんでいた。江戸時代後期には「コンニャクの幽霊」「豆腐小僧」などの出来立てホヤホヤの化物キャラクターまで登場した。画家にも庶民にも豊かな遊びの心があった。絵画の場合、リアルに恐ろしく描こうとすればするほど、化物の正体は丸見えとなり、真の恐怖から遠ざかるのである。一方、挿絵のない文章だけの文学の場合には、絵のように明瞭で具体的なイメージは登場しない。ある程度は読者の想像にゆだねられるので恐ろしさが煽られる。そして時には、幽霊も妖怪も怪物も登場しないのに、読者を心底戦慄させる作品がある。「えもいわれぬ」恐ろしさである。これこそ作者の手腕が問われる文学の真骨頂ということになるだろう。

 楽しんだり怖がったり、怪談に関わる絵画と文学は実に面白い。幽霊や妖怪は、多くの学者が研究対象として取り上げているように、芸術のみならず神話、宗教、民俗、歴史などの分野に関連する深く幅広い内容を持つ。なお、市立小樽文学館では、上記した「怪奇幻想文学館」の小樽特別ヴァージョンが開催される(8/49/7 会期は予定)。美術館で行われる現代作家との国際交流展「スウェーデン芸術祭」(7/21~9/16)とあわせて、ぜひご覧いただきたい。

新明 英仁

埋もれた画家

美術館の学芸員にとって、仕事の醍醐味といえるもののひとつに、埋もれた画家の再発見がある。むろん、西洋の名画や国宝級の美術品を展示紹介することも面白いが、誰も注目していない優れた作家を調べて世に送り出すことはそれにまさる楽しみがある。
つまり、当の学芸員だけがその魅力を知っていて、調べるうちに誰よりも詳しくなるという、マニアックな楽しみが味わえるわけである。
そう、世の中に知られていないのだから、調べた人が最も詳しいのは当たり前である。
しかし、普段から広くアンテナを張っていないと、そのような作家にめぐり合うことは困難である。仮に目に触れても作品の良さに気づかなければおしまいである。ともかく、そのような作家を見出すには、詳細な調査、経験と勘と情熱、それに良い作品を見る眼が重要だ。そして論文や展覧会で世に送り出すときは、自信と不安が相半ばする。学芸員としては、自分の眼が節穴ではないことを信じるしかない。
特に地方の都市などで活動している作家の中には、あまりにも身近な存在であるために、地元の人がかえってその才能に気づかないということもあるだろう。美術館学芸員が関わることによって再発見された代表的な北海道ゆかりの作家として、神田日勝(鹿追町)や深井克己(函館市)の例がある(以下カッコ内は主なゆかりの地)。これは北海道立近代美術館の学芸員の努力によるところが大きい。小樽市ゆかりの版画家一原有徳の異才も、神奈川県立近代美術館の館長をつとめた土方定一氏の積極的紹介によって全国的に知られるようになったことは、関係者の間で良く知られている。高坂和子(根室市)、佐藤進(旭川市)なども、美術館での積極的な紹介によって、ローカルな存在ではなくなった例である。
むろん、埋もれた作家の再発見は、いわゆる新発見報道とは異質のものである。既に作品は発表されているので、未知の動植物や化石ではない。何らかの理由で忘れられていたのである。その作家を見出したことに瞞着せず、調査を重ね、その作家の持つ真実の魅力を展覧会と論文で引き出し、広く再認識してもらうことが重要となる。
さて、以前からずっと気になっている秋田義一(旭川生まれ、生年不詳~1933没)という夭折の画家がいる。遺族は所在不明である。旭川の初期の画会を調べているときにその名は登場し、面白そうな作家だと思ったが、実際の作品を見る機会に恵まれなかった。上京して近代洋画の巨匠である萬鉄五郎主宰の円鳥会に所属したことがわかるし、二科会にも出品している。旭川で五人展(萬鉄五郎を含む)や個展を開催し、旭川新聞記者だった若き小熊秀雄がその展評を書いた。また、詩人の金子光晴・森美千代夫妻と上海で放浪生活をしていたことも金子の著書『どくろ杯』で詳細に述べられている。さらに、『芸術新潮』連載の「気まぐれ美術館」で洲之内徹氏が二回にわたって言及し、作品のカラー図版を掲載した。私は、旭川の美術を一冊の本にまとめる仕事を依頼されていたので、何とか執筆前にその作品を見たいと思い、所有しているという信州の某ホテルに電話を入れたところ、調べてくれたものの、該当作品は見つからないとのことであった。他のことにかまけているうちに年月が過ぎ、作品は所在不明となり、恥ずかしながら実物を調査する機会を逸したのである。探索はもはや「迷宮入り」かもしれない。
ところで、小樽にも埋もれた画家はいるだろうと思っていたら、船樹忠三郎(舟木忠三郎とも表記される、1891頃生~1951没)という気になる画家に出会った。現在、当館の一階で5点の作品が展示されている(2018年3月4日まで)。その名前は辛うじて知っていたが、作品を見るのは初めてである。今のところ大正13(1924)年以後は画家としての活動記録がなく、事情によって家業に多忙であったらしい。従って画家として活動したのは20代から30代にかけての十数年間ほどとなる。大正初年頃から上京して大下藤次郎主催の日本水彩画研究所に学んでおり、日本の水彩画を代表する一人である小山周次と交際があった。初期の二科会(1914年設立)に入選し、その作品は雑誌『みずゑ』に掲載されている。また、小樽の羊蹄画会や緑人社を通して工藤三郎、平澤貞通、木田金次郎、高田紅果など地元ゆかりの画家や文学者とも交流があった。5点の展示作品はいずれも小品だが、唯一の油彩画「家々の連なる風景」を見ると、上記した萬鉄五郎や岸田劉生らが大正元(1912)年から翌年にかけて結成・活動し、日本の近代美術に重要な影響を与えたフューザン会の影響を受けているのではないかと思われる。横長の画面に低い視点から野原と民家の家並みを描いた作品だが、明らかに後期印象派風であるだけでなく、萬鉄五郎などからの直接的影響があるように感じられる。この作品に律動する生命感は、船樹の明らかな才能を示している。他の水彩・素描も豊かな才能の片鱗が見られる。埋もれるには惜しいと思うので、ここで紹介したのである。遺された作品の数が非常に少ないことに加えて、大正時代の作品を新たに見つけ出すことも容易ではないだろう。しかし、今後は小樽ゆかりの重要な画家として復権させていきたいものである。

新明英仁

▲pagetop