市立小樽美術館 市立小樽美術館協力会

KANCHOの部屋

輪島進一展

keiji-wajima[1] 小樽ゆかりの実力派現役作家による特別展シリーズ第3弾は「疾走するストローク 輪島進一展」(10月27日~12月16日)である。小樽生まれの木嶋良治(札幌在住)の画歴をたどった「風土への賛辞 木嶋良治展」(5月26日~7月29日)に続き、小樽朝里川温泉にアトリエを構える阿部典英の平面 から立体まで多彩な作品を集めた「海への回帰 阿部典英展」(8月5日~9月17日)が開かれ、この後を受ける形で今回の輪島進一展が実現することになった。函館出身で現在も函館に住むこの作家の小樽との関わりは長い教職生活の生涯の中で1998年から2003年までの5年間を道立小樽桜陽高等学校の教壇に立った経験もあるため。指導を受けた教え子も多いというわけだ。また、この作家には小樽の手宮地域や運河風景などをモチーフにした大作もあり、小樽のマチのたたずまいに惚れ込んだという心境吐露もあって学生時代から今日に至る画業をたどる今回展開催の企画を快く引き受けて頂くことが出来た。
  ここに本展を機に発刊された図録のあいさつ文から再録する。
 ――函館生まれの輪島進一は、20代半ばから独立展で華々しい受賞歴を飾り、安井賞展には4度選抜された実力画家です。連続する動きを一つの場面 の中に納める独特の表現方法は、独立展において奨励賞、50周年記念賞、新人賞、小島賞、高畠賞、独立賞などの受賞歴にあるように、高い評価を受けてきました。
  北海道教育大特別教員養成課程(美術・工芸)を卒業後、現在に至るまで高校・大学で教鞭を執ってきた輪島は、自らの制作と並行して、美術鑑賞と表現活動には、認知科学の一領域としての視点が重要であると考え、独自に研究を進めました。近年は児童画などに見られる自動筆記(スクリブル)を自作に取り入れています。輪島はイメージを望んだとおりに表現できる卓越した描写力を備えているとともに「絵画とはひとつひとつ描いた時間(タッチ)が絵を形成するのだ」と考え、時間表現を作品のテーマにしてきました。1980年代は 現代人の姿を通して、消費を美徳とする経済優先の社会風潮への痛烈な批判を投げかけ、その後バレリーナのリハーサルや舞台裏に取材し、ムーブマンのある独特の美の世界を獲得しました。静止しているはずの平面 絵画に、無限に続く時の流れを描きつつ、なぜかそこに描かれる世界は、生と死の重さを背負っているように感じます。2011年の東日本大震災後、輪島はまた新たな創作を開始しようとしています。本展は洋画家輪島進一(独立展会員、全道展会員)の初期から最近作までの油彩を主に独立展出品作(30点)でたどり、その独創的な絵画世界展覧するものです。
  年の瀬も間近に世の中は野田民主党政権による衆議院解散―総選挙(12月4日公示、12月16日投開票)東京都知事選(12月16日)の動きも慌ただしい政治の季節です。10党を超える異常と思われる多政党乱立の行方が注目されますが、本展の会期末は奇しくも投票当日と重なりました。この美術館内研修室も投票所に指定されており、当日の賑いが楽しみです。

阿部典英展

K-ABE[1] 小樽市朝里川温泉にアトリエを構える美術家、阿部典英の特別展「心の原風景―海への回帰 阿部典英展」(8月4日~9月17日)は、 先に閉幕した「風土への賛辞 木嶋良治展」に続く特別展「心の原風景」シリーズのPartⅡ。小樽運河や水の都ヴェネチアの水辺風景などをモチーフに油彩タブローで静謐な世界を描き上げ見せてくれた木嶋展から展覧会場は一転。若き日の油彩画から立体、それも最近作の巨大な 「ダンナサン」「オヨメサン」シリーズなどが会場狭しと出品され、見応えのある展覧となった。
 同時に出版された図録に記した一文からの再録を許してもらおう。
 なに気なく身の回りに存在するモノ、素材に阿部典英の感性と思考、そしてその手にかかると、平面から立体まで多様多彩としか言いようのない作品となってしまう。破天荒な世界。その創作活動をどう表現するか。「器用な仕事」といってしまえばそれまでだが、テンエイ・ワールド を見ていると言語による表現力の貧困を痛感することになる。
  この小樽展に先がけて北海道立近代美術館で開かれた「阿部典英のすべて―工作少年、イメージの深海をゆく」に触れて作家荒巻義雄は 「ブリコラージュ」(あり合わせの材料でつくる器用仕事)と受け止め、文化人類学の泰斗で構造主義者のレヴィ・ストロースの著書「野生の思考」 から引用して「未開人でも野蛮人でもない野生人の思考」と位置づけた。「パンセ・サバージュ(野生の思考)」とは、「概念からの思考ではなく、モノから発想される思考」つまり「モノ思考」が作品群となって繰り広げられるのが阿部典英の世界というわけである。
  その表現に使用される素材は木材、金属、ウレタン、皮革、石片、貝がらなどなんでもござれで、その営為を個別の作品で見詰めていると製造、 製作、工作、造型、制作、創造、創作などの言語が次々に浮かんでは消えていく。作品にぐんと近寄ってみると細密な作業ぶりに驚かされることに もなる。例えばサカナの写実画はこの作家の器用ぶりを物語る典型といえようか。少年時代を過ごした後志の日本海岸のムラ島牧が今回展のタイトル「心の原風景―海への回帰」となった。

木嶋良治展

keiji-kijima[1] みなと街小樽に生まれ育った画家、木嶋良治の画業をたどる特別展「心の原風景―風土への賛辞 木嶋良治展」(5月26日~7月29日)は、その作品群がもたらす静謐な品格と堅牢かつ濃密な質感で会場を訪れる絵画愛好家の目を楽しませている。
  小樽ゆかりの現役作家に登場願うシリーズ「小樽へ結ぶ現代の風貌」の第1弾で、木嶋良治の次には8月4日から小樽の朝里川温泉にアトリエを構える美術作家阿部典英の「心の原風景―海への回帰 阿部典英展」(~9月17日)が第2弾として続く。
  木嶋良治展には1974年制作の「幣舞橋」から2012年制作の最新作「雪ぐもり」まで、油彩の大作39点が壁面を飾った。さらに小展示室 にも「北浜」「紋別の海」「石狩川河口」「小樽港」などの小品10点も添えられ、所蔵の欲求を誘っているよう。
  故郷小樽やオホーツク沿岸、釧路の海辺や川など北海道の風景をモチーフに描き続けてきた。その作品のなかで特に小樽運河は、大学入学前に 結核で胸を病み休学中に観察を重ね、その時代に脳裏に焼き付けた風景が制作の強い動機となっている。運河に落ちる建物の影は、鏡に映ったように美しく、年月を経てよどんだなかに繊細な美を発見したよう。
  運河からやがて1970年代に至って、水と建物のある風景を描き始め、水面に映る影は水そのものの色と反射で映り込んだ建物などの両方の色が現れる。影はその時々の自身の心のあり様を反映したものか。
  30歳代後半からイタリアなど長期海外取材や道東への旅を重ね、モチーフの広がりを見せ、テーマとしての「水辺に落ちる建物の影」や「雪の家並み」を描く画面は緻密に構成され一層完成度を高めていく。
  画歴では、半世紀にわたる北海道美術協会(道展)への出品、個展の開催など北海道画壇の中心的存在であるだけでなく、高等学校での美術教育の先頭に立って活躍し人望を集め、それらの実績を認められて2007年札幌芸術賞を受賞している。現在は札幌市南区藤野在住。

小樽1970-80年代の新風 鵜沼人士とともに

keiji-unuma[1] 2009年1月18日、みなと町小樽に生まれ育った油彩画家・鵜沼人士が52歳の若さで急逝した。ガンだったと聞く。道立札幌西高等学校の美術教師としての在職死だった。
  惜しまれたその死から早3年が過ぎ、彼と同世代で現在なお現役作家として活躍する小樽ゆかりの仲間たちの出品を願って、企画展 「小樽1970-80年代の新風 鵜沼人士とともに」(2月18日~5月13日)を実現することができた。同展に作品を寄せてくれた仲間は年長順に豊田満、末永正子、澤田範明、坂東宏哉、鵜沼人士、小林大、武石英孝、丸山知子、谷口明志、福原幸喜、そして現在は仏人と結婚してフランスにすむ実姉のマユミ・ウヌマ・リンク(鵜沼真弓)の11人で、丸山の1点を別 として、残る10人は各5点前後を出品した。 小樽、札幌、岩見沢など道央圏在住の北海道美術協会(道展)会員が大半を占める。
  彼らが画家の道に踏み出した1970-80年代は日本が高度経済成長を遂げ、安定した右肩上がりの時代に突入した時期。’72年には札幌 オリンピック冬季大会で、宮の森ジャンプ台で笠谷幸生選手ら3人の“日の丸飛行隊”に湧き、札幌地下鉄開通 、ダイエー、イトーヨーカ堂、 札幌パルコなど西武グループ、東急系大規模小売店の進出など、オイル・ショックを含め経済ニュースが新聞・テレビをにぎわした。この頃 20代だった彼らは次々とグループ展を立ち上げ、小樽美術界に久々の新しい波を巻き起こしたのである。
  好景気の時代背景が芸術文化の世界に活気をもたらす例は、日清・日露戦争を経て小樽経済が急成長を果 たした明治末期から大正、昭和初期に美術界でみると、花の都パリに遊学した長谷川昇、小寺健吉、工藤三郎の3人をはじめ、平澤貞通 、三浦鮮治、兼平英示、中村善策、国松登、 大月源二、鈴木伝ら有力な画家が登場、美術史に「小樽派」の表現が見られるほどの勢いを見せた。戦後の復興期にもこうした例をみられよう。
  鵜沼人士の画業と生涯をしのび、そしてその仲間たちの果実を楽しんでほしい。

終わりなき版への挑戦 没後一年 一原有徳 大版モノタイプ

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 小樽が生んだ「現代版画の鬼才」一原有徳が100歳の天寿を全うして昨年10月1日に逝去して1年が過ぎた。その画業を偲ぶ遺作の特別展「終わりなき版への挑戦~没後一年 一原有徳 大版モノタイプ」が10月22日から市立小樽 美術館の2階展示室で始まった。会期は2012年2月12日(日)までと異例のロングランである。同美術館のリニュ ーアル再整備に伴い3階に新装常設化された「一原有徳記念ホール」で今年4月から開催中の企画展「幻視者 一原有徳」 と合わせ、ケタはずれの創意と創造力に満ち溢れた「イチハラ・ワールド」は、来館者にとって十分楽しんでもらえる ものと期待している。
 1点刷りのモノタイプ作品に的を絞った今回の特別展には石版、ステンレス版、アルミニウム版から紙に刷り上げた大小 の作品のほか、ステンレス版にアセチレンのバーナーで焼き付けた超大作など、合わせて44点を展示した。同美術館の 所蔵作品に加え、床面や壁面を覆い尽くすような超大作を所蔵する(株)アートフロントギャラリー(東京)の協力を得て 12点を借り受けた。中でも「SANYO]のタイトルがつくA~Eのシリーズ6点は、194.0×530.0cmをはじめ、これ を超えるアルミニウム版モノタイプの大作で目を奪う迫力を、そして静寂を感じさせる。
 「COMZON」のタイトルがつくモノタイプは床から天井まで直径50cmの円柱で高さは360cm。やはり同タイトルのステ ンレス版のアセチレンガスバーナー焼き抜きの作品は360cm四方の大作が壁面 を覆う。「UNTITLED」と題する立体 作品はディスプレイ用の円筒ケースにモノタイプを貼りつけ、モーターで回転する一原のイタズラ心を思わせる作品。思わず笑ってしまう。

 1910(明治43)年8月、徳島県那賀郡平島村(現・阿南市那賀川町)に生を受けた一原有徳は3歳のとき家族とともに 北海道の後志管内真狩村に移住。1923(大正12)年、13歳で真狩尋常小学校を卒業後、父母妹とともに小樽に移り 住んで以後、一生を小樽で過ごした。1927(昭和2)年、当時の逓信省小樽貯金支局(同27年、郵政省小樽地方貯金局 と改称)に少年事務員として入局、1970(同45)年の定年退職まで45年間勤務した。
 ここで今年度から一部リニューアルして市立小樽美術館・文学館の専用として特化されたこの施設の来歴について振り返ってみたい。この庁舎は元々郵政省小樽地方貯金局として戦後の1952(同27)年に実現した。庁舎の設計は、全国各地の郵政省関係の庁舎や現在の外務省本省なども手がけた“近代建築の先人”に数えられる小坂秀雄(1912~2000年) によるもので、竣工当時は戦後の復興期にあって「合理性」を設計のポリシーにモダンなセンスあふれた建築作品として各界 の注目を浴びた存在だった。建物がモダンであれば、そこに働く職員の誇りとセンスも時代の先端を行くものだったことは想像に難くない。時代はやがて「60年安保騒動」を経て「所得倍増論」から「高度経済成長」へと突き進み、東京オリンピックで湧き返るのである。
 課長ポストでの定年退職までこの庁舎に勤務した一原は、その職場の先輩で画家の須田三代治の手ほどきで美術に目覚め、 1957(同32)年ごろから版画の世界に踏み出す。庁舎地階倉庫に放置されていたガリ版刷りに代わる前の石版機と 出合い、やはり職場同僚の技工士の助言でその地下1室を秘密のアトリエとして版画制作に没頭していったのである。「公私混同」が許された時代のおおらかさがそこにある。
 ともあれ、そんな庁舎が小樽市に移管されて市分庁舎となり、やがて文学館(1978)美術館(1979)の開館となり、 今や美術館・文学館の専用施設として再整備特化されたわけだが、その施設で生まれ活躍した“遅咲き”の版画家一原有徳の作品が多数収蔵され、記念ホールを持つ主役の1人となった。そんな例を私自身寡聞にして知らない。
  異例のロングランとなるこの特別展の会期中、12月3日(土)には同美術館で一原有徳の画歴に深く関わった世田谷美術館 の酒井忠康館長を講師に迎え「土方定一と一原有徳~批評家と作家の出会い」のタイトルで講演会が開かれる。

アンリ・ルソーと素朴な画家たち

 小樽市が平成22年度事業として取り組んできた市立小樽美術館・文学館の再整備工事(総事業費1億5千万円規模)が年度末に完了、築後60年も間近の施設(旧小樽地方貯金局=小坂秀雄設計)は美術館・文学館の専用施設に特化されて一新した。このリニューアルを記念する特別展「アンリ・ルソーと素朴な画家たち~いきること・えがくこと」(5月21日ー7月10日)も終幕を前に入館者の姿が増えている。
 この展覧会は世田谷美術館(東京)のコレクションによるもので、財団法人「地域創造」の助成を受けて全国4カ所を巡る共同巡回展として企画された。小樽会場を皮切りにこの後、千葉県市川市の芳澤ガーデンギャラリー、岡山県笠岡市の市立竹喬美術館、そして愛知県春日井市の文化フォーラム春日井へと会場を移すことになっている。「地域創造」の肝入りによるこの「市町村立美術館活性化事業」は今年度で11回目を数える歴史を持つが、小樽が加わったのはこれが初めてのこと。
  さて、この特別展は世田谷美術館が開館当初から問い続けてきた「芸術と素朴」のコレクションから借り受けた45点を展示した。「正規の美術教育を受けず、理論や技術とは無縁に、描きたいという心の衝動に従って作品を創造してきた画家たちを“素朴派“と呼んできた」が、その代表格とされるのがアンリ・ルソー(1844ー1910)である。パリ市税関吏という正業のかたわら40歳頃から絵を描き始め、ピカソや詩人のアポネールらに注目されて世界的画家の地位 を得た。美術批評家で画商コレクターでもあったヴィルヘルム・ウーデによって見い出され、その後、アンドレ・ボーシャン、カミーユ・ボンボワ、セラフィーヌ・ルイ、ルイ・ヴィヴァンらの画家たちが素朴派の仲間入りを果たし、その波はフランスからヨーロッパ、アメリカへと広がる。今回の展示には日本から山下清、谷内六郎、塔本シスコ、久永強ら4人の作品が並んだ。面白い彫刻家としても知られるフェルナンド・ボテロの大作油彩画「アダムとイヴ」はボテボテの男と女が描かれ圧観だ。
 「アンリ・ルソーと聖なる心の画家たち」「素朴派の広がり」「近・現代美術と素朴」の3章立てで合わせて27人の世界の画家たちが紹介され、しっとり落ち着きをみせる展覧会になったと自負している。

大月源二と富樫正雄展

 2011.3.11。東日本から北海道に至る広大な地域を襲った「東北関東大地震」の被災情報が続いている。日本国内はもちろん世界の各国も揺るがす事態である。巨大の枕文字を冠する「地震」-「津波」-「原発事故」の三重苦に見舞われ、救助救難から復興策と考えていくと、文字どおり「気が遠くなる」というものである。とりわけ恐怖を募らせるのが東京電力福島第1原子力発電所で引き起こされた第1~6号機の迷走?いや暴走ともいうべき危機の行方だ。世界の注視と支援もこれによる。日本の危機は原発を稼働する世界の、まさに地球上の全生物の危機といえるのではないか。未だに続くメディアの情報に「言葉を失う」という表現を“初体験”している。  このコーナーとしては“番外”の文章となってしまったが、「想定外」を言い逃れとする政府、東電、専門家らの発言にイラつき、興奮していることを白状して許しを乞いたい。被災地の人々の1日も早い復興を願っていることは申すまでもありません。

 さて、本題である当美術館の展覧会は郷土小樽の具象画家の先達の2人展である。題して「大月源二と富樫正雄展―昇華する写 実・生活のなかに美を求めて」(2月19日~5月15日)。

 大月源二(1904~1971)は函館に生まれたが、父親の仕事の都合で幼少期に小樽に転居、小学校から 庁立小樽中学校を経て東京美術学校(現東京芸術大学)西洋画科に学んだ。樽中時代に水彩 画を通じて小林多喜二との交友が始まり、在京中に小林多喜二が都新聞に連載した新聞小説「新女性気質」の挿絵や、小説「蟹工船」「1928.3.15」のカットなどを描いた。プロレタリア美術運動に参画して治安維持法違反で検挙され、豊多摩刑務所に収監される経験を持つ。戦時中は東京生活で新文展、一水会の受賞など制作に励むが、戦況激化で1944(昭和19)年、故郷小樽に疎開、後志の仁木町でリンゴ園を営みながら制作を続けた。昭和29年の洞爺丸台風(台風15号)でリンゴ園が倒壊したのを機に札幌・手稲に移り住み、「北海道生活派美術家集団」の創立や生活派美術展の開催などリーダーとして活躍した。今回展には16歳の時に描いた水彩画「緑陰の道」をはじめ戦前、戦中、戦後にわたる油彩 33点を出展、生涯の画業をたどることができる。

 富樫正雄(1913~1990)は生っ粋の小樽っ子。12歳ごろから油絵を習い始め、小樽中学2年在学中の昭和2年道展入選を果 たしている。昭和6年、東京美術学校をめざして上京、川端画学校に通いながら翌7年には東京美校西洋画科入学を果たす。大月源二と同じ道である。しかし、在学2年で美校生徒課の官僚体質を嫌って退学、小樽に戻る。中央の文展、一水会に出品、道展でも協会賞受賞(昭和18年)など画歴を重ねる。戦後は大月源二、小竹義夫、金丸直衛、森本三郎、小島真佐吉らと「民主美術研究会」の結成に関わり、地元小樽市展の発足にも大きく貢献した。昭和27年の「北海道生活派美術家集団」の創立にも大月源二とともに関わった。同34年には大月の住む札幌手稲に転居した。

 今回展の出品作はいずれも戦後に制作された30点。ただ1点、戦前の1935(昭和10)年に描かれた「ちよさん」はその後結婚する庁立小樽高等女学校の女学生だった越後チヨである。このチヨさんの姉ヨシさんは画家国松登の妻である。また、1970(昭和45)年制作の「冬の塩谷」は、中学時代の恩師伊藤整を偲んでその死の翌年に描かれた作品で、白波の押し寄せる塩谷海岸の風景は、一連の富樫作品とはひと味変わったもの悲しさが伝わってくる一作である。

 それにしても、生活派の美術家集団を立ち上げるなど貧しい人々の暮らしに心を寄せた大月、富樫の両画伯が、死者・行方不明者1万8千人超という今日の地震被災にどんな「言葉」を発するのだろう。

木版画家 金子誠治 愛の絆

 小樽に腰を据えて版画界に大きな足跡を残した金子誠治(1914~1994)の画業をしのぶ企画展 「木版画家 金子誠治・愛の絆展」が開幕、静かな賑いをよんでいる(会期2010/11/27~2011/2/13)。 没後17年を迎え、あらためてその生涯で残された木版画を中心にモノタイプ、水彩画、油彩画、ガラス絵など の作品合わせて75点が壁面を埋め、内容の濃い展覧会になったと満足している。金子作品も数点所蔵する 当美術館は没後間もない1996年、木版画の代表作を網羅した「木のぬくもりから生まれる・金子誠治展」 を開催しており、以来14年ぶりの“金子展”となるが、本展開催を機に画文集を制作した峰夫人やご家族は「うれしい展覧会と17回忌になりました」と故人に熱い思いを馳せている。
 1914年(大正3)年、砂川で生を受けた誠治(この時は角野姓、戦後ペンネームのつもりで母方の金子姓を名乗る)は5歳時に一家で小樽に移り住み、終生小樽を離れることはなかった。旧制小樽市立中学校で教えを 受けた成田玉泉から、日本伝統の浮世絵版画とは一線を画す「創作版画」の世界を学び、のめり込む。1927(昭和5)年には13歳の若さで道展初入選、1937(同15)年の23歳時には中央の日本版画協会展と 国画会展に初入選を果たしている。この時期には後の版画界の巨匠となる棟方志功との小樽での出会い、そして上京しての親交などと続くのだが、太平洋戦争への突入とその混乱で帰樽、戦中戦後は道展会員として地元小樽はもちろん札幌中心の美術界の発展に貢献する生涯を刻むことになった。
 金子誠治は版画について「絵の俳句である」という言葉を残す。小樽を中心とした北海道の風景、晩年取材 旅行に出かけたヨーロッパ、教師として接した子どもたち、金子を支えた家族の姿、花々などをモチーフにした 作品をみていると「絵の俳句」という表現の鋭さに胸を突かれる思いがする。  伝統的な木版と現代感覚を融合させた金子誠治の多彩な仕事によって創作の軌跡をたどり、根底にある作者の 精神性を感じ取っていただければ幸いである。

素描の技 時を刻む線描

sobyo-keiji[1] 油彩、水彩、彫刻など平面、立体を問わず、造形作家にとってデッサン、クロッキー、スケッチ、エスキースなどの素描は制作活動の出発点といえるだろう。美術家の脳裏に映り、浮かぶイメージやアイデアが形となって具体化する一瞬、そこに他者へのメッセージが生まれる。

 現在、当美術館で開かれている特別展「素描の技 時を刻む線描」(7月17日~9月20日)はそのような美術家の制作の“原点”に焦点を当てて企画された展覧会である。それぞれの作家の個展などで素描も出品される例もあるが、著名作家の素描に的を絞っての企画展は珍しいケースではないかと思っている。来館者の期待に十分応えられる内容になったと自負している。
 出品作家は油彩画家7人と彫刻家5人の合わせて12人、出品作は108点に上る。油彩 画家は故人、現役を含め高森捷三(1908~1977)濱本恵義(1914~2008)亀山良雄(1921~1997)栃内忠男(1923~2009)伏木田光夫(1935~)山田芳生(1946~)輪島進一(1951~)の7人である。また、彫刻家では木内克(1892~1977)柳原義達(1910~2004)佐藤忠良(1912~)阿部典英(1939~)國松明日香(1947~)の5人。ここで特記されるのは阿部典英、國松明日香(ともに札幌在住)の両作家には素描と同時に彫刻作品そのものも出品してもらったため、会場にある種の重量 感をもたらした点である。
 出品作が最も多い阿部典英の素描は29点に上る。アイデアスケッチを日課とする作家だけにその素描にナンバーを打って大切に保存しており、その素描に限った画集「海底」(2003年)「胎動」(2005年)の2冊を刊行した。同時に木や竹、アクリルなどによる彫刻作品「オヨメサンニナレナイオヨメサン」シリーズ2点、「ABE TEN MEN」シリーズ(10点組)「MOKUREIJIN」シリーズ(30点組)も出品され、素描と実作品の対照性が興味深い内容を見せている。
 一方、國松作品は木炭・コラージュの素描9点と鉄とステンレス鋼の立体「水面 の風」シリーズなど4点が並んだが、こちらは素描と立体作品が共通 項をもちながら微妙に独立した作品空間を見せてくれる。
 さて、平面作家の圧観は輪島進一の大作を含む11点と山田芳生の大小作品17点。輪島は「水景のリズム」「インフィニティ」「楽屋裏にて」などのタイトルで裸婦や踊り子、風景をモチーフに大判のマーメイド紙にペンで描かれたモノクロームの世界の完成度は高い。これは“素描”を越えた作品となっている。
 山田芳生の出品作は「妻と娘」「男の顔」などの素描11点のほか「女の立像」と題する連作5点と「心象風景」と題した1点を合わせ油彩 画6点が並んだ。描き込まれた油彩とデッサンの対比に興味がひかれる…
 最後になるが、佐藤忠良の素描8点や亀山良雄1点、伏木田光夫4点、栃内忠男「ふたつのりんご」1点、木内克の「裸婦」2点などの素描はいづれも札幌芸術の森美術館のコレクションから借り受けた貴重な作品であることを記して感謝にかえたい。

小樽・水彩画の潮流

 

「風景」平沢貞通
「赤松と海」平沢貞通

 小樽画壇は油彩とともに水彩画の分野もその伝統と層の厚さを 誇る。その歴史的流れに焦点を当てた企画展「小樽・水彩画の潮流」(2月27日~5月9日)が当美術館2階ホールで始まった。副題は「平沢貞通 ・埋もれた画業の発掘」である。戦後の混乱期に東京で発生した「帝銀事件」の犯人として捕まえられ、無実を訴えながら死刑囚として獄死したあの平沢貞通 (1892~1987)は、大正時代から昭和初期にかけて帝展や光風会を舞台に中央画壇で活躍したが、裁判による死刑判決とともに残した300点にも上ろうという作品群は散逸、画壇仲間との人間関係も崩壊する中でその輝かしい画業自体が歴史の闇に埋もれてしまったのである。
 当美術館は昨年開館30周年を記念して特別展「画家たちのパリ」を開催、その中で大正―昭和期にパリ遊学を果 たした小樽出身の長谷川昇、小寺健吉、工藤三郎ら洋画界の先人の画業を紹介したが、旧制小樽中学出身の平沢貞通 は彼らと同時代人であり、1914(大正3)年には自らも創立に関わった日本水彩 画会研究所の小樽支部を設立、当時青少年期にあった三浦鮮治、兼平英示、中村善策、国松登ら後進に大きな刺激を与える功績を残したのである。こうした平沢の画業に光を当て、再評価を世に問うのは当美術館の使命、義務ともいえる。
 平沢に無実を信じ「再審請求」の弁護士だった父の遺志を継ぎ平沢と養子縁組みした息子・武彦氏(東京在住)をはじめ各方面 の支援者の協力を得て31点の作品展示がここに実現した。公立美術館としては初めての規模となり、感慨を覚えている。

「水源(伊佐内川)」森田正世史
「丸山晩秋」氏家和夫
 

 今回の企画展はこれらの平沢作品を軸にして続く小樽水彩画界を担ってきた宮崎信吉、森田正世史、繁野三郎、板倉力蔵、中島鉄雄、大和屋巌、鈴木儀市、坂東義秋、氏家和夫、白江正夫、笹川誠吉、高橋好子ら合わせて13人の水彩 画67点が壁面を飾り、見応えのある高水準の内容になったと自負している。幸い開幕から入館者の出足は好調で、その数も通 常の企画展を上回るペースをみせており、さらなる入りを期待している。
 また、1階常設の中村善策記念ホールでは「四季の彩り・春夏秋冬」のタイトルで新収蔵品の「山湖」(絹地に油彩 画)をはじめ日展や一水会展に出品された20点を展示している。

 
「マテラ街景」笹川誠吉 「さいはて」白江正夫 「婦人像」宮崎信吉

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