北欧にはシベリウス、グリ-グ、ニールセン、アルヴェーン、マデトヤなど魅力的な作曲家が多数いる。中でも私はシベリウス(1865~1957)のファンであり、とりわけ交響曲第7番(1924年)が好きである。シベリウス最後の交響曲であり、交響曲とは言っても単一楽章で、演奏時間も20分程度と短く、内容的には幻想的な交響詩というような曲である。ブルックナーやマーラーの壮大な交響曲とは全く方向が異なって、簡潔である。しかし、その表現するものは限りなくといっていいほど奥行きが深いと感じられる。印象的な主題がいくつかあって、それが複雑に溶け合うように展開する。具体的な自然現象を思わせるような描写は全くない。音楽を言葉で表現すると徒労に終わることは承知の上で書き続けるなら、最後の一音が消えていったとき、私の感覚は遥か彼方へ開放され、静寂な空間がどこまでも広がっていくようで、深く心が動かされるのである。
シベリウスは、この曲で故国フィンランドの自然と歴史と自らの人生を反芻し、すべてを語り尽くしたと感じたのかもしれない。その後も交響詩「タピオラ」(これもすばらしい)などが作曲されたが、まもなく彼は引退し、ほとんど書き上げていたと言われる交響曲第8番をはじめとする多数の楽譜は人に見せることなく破棄されたそうである。自作に厳しいのはやむをえないが、なんともったいないことだろうか。
ところで、このエッセイで考えたいのは「北方的」ということである。シベリウスの音楽は西洋の作曲家中では最も北方的に感じられる。いや「北欧的」というべきかもしれないが・・・それは彼の多数の作品で感じられるのだが、どうしてそう感じられるのか。旋律なのか、和声なのか、リズムなのか、その全部か・・・単に北欧フィンランドの作曲家としてのシベリウスの存在が頭に刷り込まれているからそう感じるだけではないのか?という疑問も湧いて来るのである。
絵画をそれに例えるなら、北国出身の画家による故国の風景や民俗を多く使った作品であるというようなことになるのだが、この単純な条件に該当する画家は非常に多数いるだろう。多くの北欧出身の作曲家も同様で、単に故国の民謡を主題にしているからというような理由では回答にならないのである。ローカルをグローバル化する力というべきか、群を抜いた芸術的才能によって、地域の文化を高次元で昇華し国際的に認知させる力が必要であろう。また、シベリウスの場合がそうであったように、国民的な芸術が要求される時代に生きたことによる民族的、政治的な背景も大きな要件である。さらに、フィンランドにおける『カレワラ』という神話的叙事詩の存在がシベリウスにとって大きなものであったように、民族や国家の持つ過去の神話や芸術も大きな意味を持つ。
ということなので、「北方的」であることを考えるのは容易には収拾のつかない問題なのである。私にとって身近なところで考えるなら、「北海道的」という表現もある。「北方的」「北欧的」とある程度重なるイメージがある言葉である。代表的な作家としては、片岡球子、砂澤ビッキ、難波田龍起などで使われている例があったように思う(他にも用例は無数にあるが)。これらの作家は北海道ゆかり、あるいは生まれであるという以上に作風に大きな関連性は無い。おのおの極めて個性的な世界を持ち、影響関係もほとんどない。
上記の3人は私自身も作家論を書いたことがあるのだが、「北海道的」あるいは「北方的」という言葉に関しては極めて慎重に扱った。というのもこの言葉の感覚的な使用が各作家のローカル性を強調し存在を矮小化してしまうことになるのではないかということ、さらに各作家の個性を表現する適切な言葉が見つからないので逃げ言葉として使ったように見えるのではないかということであった。彼らの作品は広く日本文化の視点から複合的に考えるに足るだけの内容を持っているのだから、そんなことをしては礼を失するのである。
ただし、堂々巡りになるが、北方的な要素は彼らの作品に間違いなく存在すると思う。鑑賞する場合ならそれを何となく感じればよい。ところが解説や文章を書く我々の場合は、その内容を具体的で複合的な視点から説得力のある議論を展開できるか、ということにかかってくる。これはなかなか難しいので、情けないが逃げを打つことになることも時にはあるわけである。鋭い読者なら、そんな手抜きで腑抜けの文章はすぐに見透かされてしまう。作品の本質に迫る努力が要求されるのである。
新明 英仁
もはや40年以上前のことになるが、私は念願かなって仙台市の土を踏んだ。東北大学の文学部に一浪で入学したのである。親元の旭川から離れて遠く仙台の一人暮らしの毎日は夢のように楽しかった。勉強は全くしなかったが、大いに遊んで青春を謳歌した。結果的に一年留年して卒業したけれども、どうして卒業できたかは未だに謎である。
現在の大学生は勉学に就職活動に、いろいろと忙しいようだ。大学に集中講義などで出向くと少しはその様子がわかる。出席率極めて良好。そして、自分の学生時代と比較して気の毒になる。世の中が以前よりシステム化してしまっているのだ。枠に嵌められると抜け出すのが難しい。勉学や就職でいろいろ努力することが求められても、若者なら反発する気持ちも起きるだろう。もっと伸び伸びと育てたほうが後年になって良い効果が現れるのではないか。
さて、自ら選んだ文学部に入って驚いたのは、文学部が実にさまざまな人間の集まりであったということである。文学といえば、国文学か英文学か、詩人・小説家か文芸評論家かという世界であるように思っていた私は、「文学部」の具体的内容に驚いた。つまり、その時点では頭の片隅にもなかった美学・美術史をはじめとして、哲学、心理学、社会学、考古学、歴史学、民族学、言語学などの専攻を幅広く包含するものであった。これは受験生の常識に近いことであるはずなのだが、それさえも知らないで入学した田舎の小僧であったわけである。さらに受験は終わったのに大変真面目に勉強する学生が多いのに驚いた。語呂合わせにもならないが、「ブンガク」とは、「バンカラ」なものである、という私の考え方は、多彩な友人たちとの交流によって、少しずつ変わっていった。つまり、世間の広さを知っただけ少しはマシな人間になったということである。
とはいえ生活ぶりはといえば、1年生の最初の学期だけは少し勉強したが、それ以後はマージャンにのめりこみ昼夜逆転の放漫さであった。一方でギリギリの線で単位を落とさない術も身についた。出欠を気にしない先生の講義を多く取り、試験勉強だけはそれなりにして単位を取るという、オーソドックスだが、おそらく今は通じない手法である。私の友人といえば類は友を呼ぶ状態で、反骨型、はみ出し型の不勉強な仲間が多数出来た。後日、どういう訳か、彼らの多くが大企業や自治体の研究職員(大学教員や学芸員を含む)として、しっかり就職したのは不思議なことである。卒業当時(1980年頃)は、文学部などはお呼びではないといわれるほど就職難の時代だったからである。
ところで、大学の教養部の講義は、たまに出席しても退屈なものが多かった。講義の多くは大教室である。教壇で頭を掻きむしりながら外国語の文献をその場で翻訳して延々と読み上げる先生、自分の原稿を時間いっぱいにゆっくり読んで学生に筆写させる先生、講義の半分は自分の留学時の四方山話という先生、黒板に向かってブツブツと小声で何も聞こえない先生など個性的ではあったが・・・大体そんなものであり、のんびりとしていた。実際には、味のある教官の方々であったのだろうと思うし、そこには現在は失われた大学教育の寛容さが隠されていたのではないかと思われる。
私の生活は、入学して2年後に専攻することになった東洋日本美術史の研究室に入ってからも、大同小異であった。しかし、たまにしか顔を出さない研究室で、講義では見せない、担当の先生の鋭い見識に何度も接することが出来たのは幸いであった。物静かな先生であったが、私へのご叱声も含め、今でも心に残っているお言葉がいくつかある。私のような不肖の輩がここでお名前を挙げるのも畏れ多いが、伊藤若冲など奇想の画家を研究し世に送り出したことで知られる日本美術史の辻惟雄(つじのぶお)先生である。美術史の研究に関する先生のお言葉は、美術館の学芸員となって以後、30代、40代と年を重ねるにつれ、じわじわと効いてくる含蓄に富んだものであった。これこそ真の意味での大学教育だったのではないかと思う。
新明 英仁
子供の頃から好きだったもののひとつが恐竜である。恐竜の図鑑を読み込んで、名前や特徴、生きていた地質年代などを覚えていた。映画では、「キングコング」(1933年制作 多数の恐竜が登場する)、「失われた世界」(初映画化は1925年、コナン・ドイル原作1912年)、「地底旅行」(初映画化は1959年、ジュール・ヴェルヌ原作1864年)などがテレビで放送されるたびに繰り返し見ていた。これらSFの原作を集中的に読んだ時期もある。何しろ50年以上も前のことであるから、CGを駆使した「ジュラシック・パーク」(マイケル・クライトン原作1990年、1993年映画化)のような映画が作られるなど想像もできなかった。また、この恐竜趣味と一部重複したのがゴジラ趣味であった。
ところで、その頃の古い図鑑に紹介されていた恐竜の特徴は、爬虫類であり、大きいが鈍重で、知能も低いというものであった。絵に描かれている恐竜はいずれも尻尾を地面に引きずり、足も胴体も太くていかにも動きが遅そうだった。これらの絵や解説は何となく子供心に不満だった。後から思うにこうした考え方は、人類があらゆる生物の中で最も優れており、人類の属する哺乳類は爬虫類である恐竜よりも優性であるという固定観念がまとわりついていたのではないかと思う。特に先進国における大勢として、人類は万物の霊長であり、最も優れていて自然を意のままにできる、という増長した気恥ずかしくなるような万能思想が背後にあったと思われる。
恐竜に関する研究は、この50年間に飛躍的に進歩した。絶滅の原因や生態の復元に説得力のある仮説が次々と立てられている。中でも、そうした仮説の嚆矢となった、恐竜は活動的(恒温動物説)で社会性もあり知能も高いとするR・バッカー(アメリカの恐竜学者)の『恐竜異説』(1986)を読んで驚き、さらに鳥類は恐竜の進化したものであるという考え方が出たのには驚愕した。ニワトリは恐竜の子孫なのである。これらの説は、人類万能という思考回路が近年になってかなり変質し、自然に対して少し謙虚になったのと関連しているのではないかと思う。調べれば調べるほど未知の発見が多く人類にも示唆するところがあるのが古生物学のようである。
ところで、何を書きたいのかというと、『恐竜異説』を読んだとき、これならば恐竜を主人公にした小説を書く人が出る、と無能な人類である私は思ったのである。ところが、バッカー本人が既にそれを書いていた。しかも面白い。さすがである。もうひとつあるが、美術館での展覧会、これも実現可能だろう・・・というのは、恐竜の復元は、羽毛がある種類もいるので極彩色のものもいたのではないか、象の鼻やトサカのように化石になりにくい部分があるのでそれを想像して補うとどうなるか、子供と大人では体の模様が違っていた可能性があり、雄と雌にも違いがあり発情期には体の色が赤くなったり青くなったりしたのではないか・・・・などと延々と想像してしまうからである。なにしろ恐竜は美しい羽を持つ鳥の先祖なのだから。CG、造形、絵などを手がける恐竜アーティストは多数いるのでアートとして美術館で紹介することが出来る。SF文学や恐竜の表現の変遷や映像史を紹介し、当時の生息環境を再現し、トリッキーな要素を加え、恐竜を取り入れたデザインやおもちゃを紹介し、パフォーマンスやインスタレーションで現代美術家も加わる、というものである。いわば美術を含む「博物」を総合した恐竜展である。私が思い付くくらいだから、既にいくつかの展覧会は開催されているかもしれない。しかし、美術館と博物館の恐竜好きな学芸員や研究者が本気で協力し合えば、本格的なものが出来上がるだろうと思う。
恐竜は科学博物館や自然史博物館の枠内で紹介されてきたものである。それに美術館が加わったらどんなものが出来るか見てみたいものだ。近年の恐竜映画は面白いが、多くの場合、科学的知見が生かされているとはいえ、メインストーリーは恐竜と人間の追い駆けっこか恐竜同士の戦いのドタバタ劇に終わっている。もっと自然で多様な恐竜の姿を想像し考えてみたい欲求に駆られる。
本来ならば科学と芸術は友人であり、協働すれば面白いものが出来る。しかし、現実には美術館と博物館の間の専門的、心理的距離は意外に遠く、接触する機会も少ない。博物館は物(化石、標本、道具など具体的なもの)が語る事実を知り、歴史、民族、自然、技術などについての理解を深めるためにあるが、美術館は物(芸術作品)を通じた鑑賞というところに主眼が置かれる。両者に物を集め保存するという共通点はあるが、「鑑賞」には博物館的な考え方でフォローできない抽象的で情緒的なところがある。恐竜に限らず、両者の協力が簡単に実現しないのは残念である。そこには展覧会の大きな発展性と可能性があるのではないか?・・・だが、もし企画するとして、予算は十分だろうか!・・・夢から現実に戻れば恐竜と美術館の距離は実に遠い。
新明 英仁
夏が来ると、いつも思い出すのが奄美旅行のことである。最初の旅行は20年ほど前になる。そして南西諸島への旅行が病みつきとなり、奄美大島に4回、徳之島に3回、石垣島に2回と立て続けに旅行した。目的は言うまでもなく昆虫の採集である。その成果は年によってまちまちだが、平均的に見てまあまあであるとは言えるだろう。
むろんここで書くのは虫採り学芸員の自慢話ではない。それらの島々の美しさについてであり、その次に絵の話である。
最初の奄美旅行で名瀬空港に着陸する前に見た青緑に輝く海の色、それは、今でも自分の記憶の中で最も美しいものとして記憶に残っている。そして車の窓から見た白い海岸線と山と海が織り成す夕景もそうである。最初に宿泊した奄美の民宿(当時の住用村和瀬地区)は、海沿いの小さな湾の小さな集落にあり、商店は1件しかなかったが、青く美しい珊瑚礁が目の前にあった。民宿の人がそこから漁をした魚が毎日のように食卓をにぎわした。
朝、早起きして民宿の前の道に出ると、未明の薄暗い光の中、海の方角から多数の大きな蝶が飛んでくる。道端のハイビスカスの花に集まるものもあれば、内陸へ向かうものもある。その蝶の中には、熱帯低気圧に乗ってはるか南方から海を渡ってきたと思われるものもいた。「海洋を渡る蝶」といえば、画家三岸好太郎(みぎし・こうたろう 札幌市生 油彩画 1903~1934)の絵が知られているが、例えば谷文晁にも群蝶が海を渡る図があったので探せばいくつかありそうである。三岸の絵は、すばらしい作品だが、飛んでいる蝶(蛾も含む)からみて想像の産物である。私が見たのは、その現実版であるが、幻想的で今でも夢見るように思い出すことがある。また、徳之島には沖合いで戦艦大和が沈没したため、海沿いにその慰霊碑があるのだが、その海岸線の長く白く美しいこと、まばゆくて正視できないほどであった。
この奄美大島と徳之島には猛毒のハブが棲んでいることはご存知と思う。何人か知り合った民宿の素敵な「おばさん」を含め、現地の人でハブの恐ろしさを語る人は多いのだが、自然の中で実際に見たことのある人は少ないようだった。私は、夜間に林道に入ることもあるので、不意に出くわさぬよう常に気をつけていた。そしてかなり大きいものも含めて何匹か見かけた。彼らは自衛のために人を襲うのであって、必要以上に近づかなければ何事も起こらない。むしろ音を立てて近づけば逃げていく。奄美や徳之島の人々は、山林を避けて自然に遠慮するように海沿いに集落を作って生活している。これも自然との不要な衝突を避けるためだったという話をどこかで聞いたことがある。
余計なことに話が飛んだが、奄美の画家といえば近年再評価が進んだ田中一村(たなか・いっそん 日本画 1908~1977)がいる。現在奄美大島には彼を記念した美術館があるが、それが出来る以前の1995年、道立旭川美術館で学芸課長をしていたとき「田中一村展」の巡回展会場に加えてもらう機会に恵まれた。画壇を遠く離れて奄美で本格的に才能を開花させたこの画家については多くの人が語っている。私がその作品に関心を持ったのは、彼の作品が花鳥画中心であり、その中にイシガケチョウ、ツマベニチョウなど南日本(西日本)にしか生息しない魅力的な蝶が描かれていたからでもあったが、それ以上に、生命のかたちを色彩鮮やかに浮かび上がらせる南西諸島特有の自然、光、空気の力が、一種の活力と熱気をもって画面に封じこめられていたからではないかと思う。
このような作品を描くのは、旅行や短期滞在では到底不可能である。そこの住人となって生活し自然に入り込む必要がある。というより、これこそ画家のあるべき姿なのでないか・・・便利な大都会に住んで器用に描き名前が少しは知られたとしても、本当にいい作品が描けるのだろうか・・・という絵画の本質に関わる問題にもつながるだろう。ある土地に長く住んで特有の風土を余すところなく描いた作家を私は何人か知るが、彼らの作品では、流行も虚飾も抑制され、描く対象に対する没入の中から個性的表現が深く滲み出てくるようになる。したがって毎年見る四季の自然の美しさと同様に見飽きることがないのである。
新明 英仁
「これは実際にあったことである。」・・・と書き始めて恐ろしい体験談を語ることができるのなら良いが、残念ながら、そのような経験はない。
しかし、若い頃は、無闇と暗がりや離れた場所にあるトイレが恐ろしかった。その上、ポオやハーンの著作を読んで、勝手に怖がっていた。これは子供の頃の又聞きの又聞きだが、ある病院の長い廊下で夜中に看護師が患者さんとすれ違ったので互いにあいさつをした、あとで思い返すと、その患者さんは昨日亡くなった方であったというのである。ありきたりの話だが、このような話を聞くと、私は震え上がり、病院がとても恐ろしいものに思えてきた。病院でなくとも、日中はたくさんの人が出入りしているのに夜になると閑散として人っ子ひとりいなくなるようなところ、たとえば夜の学校などは、建物が新しくてきれいでも、やはり恐ろしい場所である。
この「恐怖」の源泉はどこにあるのだろうか。私の場合、年齢を加えるにつれて、以前ほど幽霊や妖怪は怖くなくなった。今でも一番怖いのは「闇」である。一寸先も見えないような漆黒の闇である。明るさに慣れた現代では、なかなか出会えない闇である。
趣味の昆虫採集で、夜行性の虫をさがすために森の中で夜中に一人だけという体験は何度かあったが、それは「えもいわれぬ」恐ろしさであった。昔の人が闇の中に百鬼夜行を想像した心理が少しはわかるような気になる。闇の中では人間の感覚は非常に鋭敏になり、いろいろな想像に頭の中が掻き乱されるからである。
さて、怖い物好きで怖がりの私が、美術館で一度開催してみたいと思ったのは、幽霊・妖怪画の展覧会であった。結論から言うと、これは実現しなかった。というのも、頭の中であれこれ考えているうちに、ほかの美術館で開催されてしまったからである。それは内容のかなり充実した展覧会であり、二番煎じはつまらないということで、企画は頭の中で立ち消えになった。とは言っても、いろいろと考えたり調べたりしたことが役立つことはあるだろうと思っていた。
やがて、その機会は到来した。一時、美術館から北海道立文学館に異動した時に「怪奇幻想文学館」という展覧会を企画開催することができたのである。ほぼ半年間の準備で開催にこぎつけたが、これが美術館の展覧会であれば、準備に3年はかかっただろうと思う。というのも、美術館は「実物の展示」が基本であるからだ。作品の出品交渉や実物の調査に非常に時間がかかるとともに、作品の借用、返却、保険その他にかかる煩瑣な事務手続きも多い。物量も大きいので必然的に予算も多くなる。予算や交渉の成り行きによっては出品をあきらめざるを得ない作品が出ることもある。これに比べると、文学館の展覧会は、資料(多くの場合書籍や書簡、自筆原稿など)の借用は、手持ち輸送か貴重品扱いの郵送で済む場合が多いし、展示は文学作品からの「部分引用」を活用すればよい。しかもこの展覧会に出品したい資料(書籍など)は、ほとんど道立文学館と私の手元にあった。煩瑣な事務が少ない分、もっとも大切な展覧会の内容に集中できるのである。ただし、ゴマンとある怪談の読書と整理には相当な時間がかかった。
ところで、展覧会の準備中、ある大切なことに気づいた。怪談と妖怪画、両者互いに深く関連するが、実は本質を異にするということである。
日本の場合、実在するとして恐れられていた妖怪や幽霊は、室町時代から江戸時代にかけて次第に絵画化され、キャラクター化していった。江戸時代に膨大な量が描かれたそれらの絵画の多くは、歌舞伎等の怪奇シーンをもとにした浮世絵と読本や黄表紙などの文学の挿絵であり、庶民はそれを怖がるよりも楽しんでいた。江戸時代後期には「コンニャクの幽霊」「豆腐小僧」などの出来立てホヤホヤの化物キャラクターまで登場した。画家にも庶民にも豊かな遊びの心があった。絵画の場合、リアルに恐ろしく描こうとすればするほど、化物の正体は丸見えとなり、真の恐怖から遠ざかるのである。一方、挿絵のない文章だけの文学の場合には、絵のように明瞭で具体的なイメージは登場しない。ある程度は読者の想像にゆだねられるので恐ろしさが煽られる。そして時には、幽霊も妖怪も怪物も登場しないのに、読者を心底戦慄させる作品がある。「えもいわれぬ」恐ろしさである。これこそ作者の手腕が問われる文学の真骨頂ということになるだろう。
楽しんだり怖がったり、怪談に関わる絵画と文学は実に面白い。幽霊や妖怪は、多くの学者が研究対象として取り上げているように、芸術のみならず神話、宗教、民俗、歴史などの分野に関連する深く幅広い内容を持つ。なお、市立小樽文学館では、上記した「怪奇幻想文学館」の小樽特別ヴァージョンが開催される(8/4~9/7 会期は予定)。美術館で行われる現代作家との国際交流展「スウェーデン芸術祭」(7/21~9/16)とあわせて、ぜひご覧いただきたい。
新明 英仁
美術館の学芸員にとって、仕事の醍醐味といえるもののひとつに、埋もれた画家の再発見がある。むろん、西洋の名画や国宝級の美術品を展示紹介することも面白いが、誰も注目していない優れた作家を調べて世に送り出すことはそれにまさる楽しみがある。
つまり、当の学芸員だけがその魅力を知っていて、調べるうちに誰よりも詳しくなるという、マニアックな楽しみが味わえるわけである。
そう、世の中に知られていないのだから、調べた人が最も詳しいのは当たり前である。
しかし、普段から広くアンテナを張っていないと、そのような作家にめぐり合うことは困難である。仮に目に触れても作品の良さに気づかなければおしまいである。ともかく、そのような作家を見出すには、詳細な調査、経験と勘と情熱、それに良い作品を見る眼が重要だ。そして論文や展覧会で世に送り出すときは、自信と不安が相半ばする。学芸員としては、自分の眼が節穴ではないことを信じるしかない。
特に地方の都市などで活動している作家の中には、あまりにも身近な存在であるために、地元の人がかえってその才能に気づかないということもあるだろう。美術館学芸員が関わることによって再発見された代表的な北海道ゆかりの作家として、神田日勝(鹿追町)や深井克己(函館市)の例がある(以下カッコ内は主なゆかりの地)。これは北海道立近代美術館の学芸員の努力によるところが大きい。小樽市ゆかりの版画家一原有徳の異才も、神奈川県立近代美術館の館長をつとめた土方定一氏の積極的紹介によって全国的に知られるようになったことは、関係者の間で良く知られている。高坂和子(根室市)、佐藤進(旭川市)なども、美術館での積極的な紹介によって、ローカルな存在ではなくなった例である。
むろん、埋もれた作家の再発見は、いわゆる新発見報道とは異質のものである。既に作品は発表されているので、未知の動植物や化石ではない。何らかの理由で忘れられていたのである。その作家を見出したことに瞞着せず、調査を重ね、その作家の持つ真実の魅力を展覧会と論文で引き出し、広く再認識してもらうことが重要となる。
さて、以前からずっと気になっている秋田義一(旭川生まれ、生年不詳~1933没)という夭折の画家がいる。遺族は所在不明である。旭川の初期の画会を調べているときにその名は登場し、面白そうな作家だと思ったが、実際の作品を見る機会に恵まれなかった。上京して近代洋画の巨匠である萬鉄五郎主宰の円鳥会に所属したことがわかるし、二科会にも出品している。旭川で五人展(萬鉄五郎を含む)や個展を開催し、旭川新聞記者だった若き小熊秀雄がその展評を書いた。また、詩人の金子光晴・森美千代夫妻と上海で放浪生活をしていたことも金子の著書『どくろ杯』で詳細に述べられている。さらに、『芸術新潮』連載の「気まぐれ美術館」で洲之内徹氏が二回にわたって言及し、作品のカラー図版を掲載した。私は、旭川の美術を一冊の本にまとめる仕事を依頼されていたので、何とか執筆前にその作品を見たいと思い、所有しているという信州の某ホテルに電話を入れたところ、調べてくれたものの、該当作品は見つからないとのことであった。他のことにかまけているうちに年月が過ぎ、作品は所在不明となり、恥ずかしながら実物を調査する機会を逸したのである。探索はもはや「迷宮入り」かもしれない。
ところで、小樽にも埋もれた画家はいるだろうと思っていたら、船樹忠三郎(舟木忠三郎とも表記される、1891頃生~1951没)という気になる画家に出会った。現在、当館の一階で5点の作品が展示されている(2018年3月4日まで)。その名前は辛うじて知っていたが、作品を見るのは初めてである。今のところ大正13(1924)年以後は画家としての活動記録がなく、事情によって家業に多忙であったらしい。従って画家として活動したのは20代から30代にかけての十数年間ほどとなる。大正初年頃から上京して大下藤次郎主催の日本水彩画研究所に学んでおり、日本の水彩画を代表する一人である小山周次と交際があった。初期の二科会(1914年設立)に入選し、その作品は雑誌『みずゑ』に掲載されている。また、小樽の羊蹄画会や緑人社を通して工藤三郎、平澤貞通、木田金次郎、高田紅果など地元ゆかりの画家や文学者とも交流があった。5点の展示作品はいずれも小品だが、唯一の油彩画「家々の連なる風景」を見ると、上記した萬鉄五郎や岸田劉生らが大正元(1912)年から翌年にかけて結成・活動し、日本の近代美術に重要な影響を与えたフューザン会の影響を受けているのではないかと思われる。横長の画面に低い視点から野原と民家の家並みを描いた作品だが、明らかに後期印象派風であるだけでなく、萬鉄五郎などからの直接的影響があるように感じられる。この作品に律動する生命感は、船樹の明らかな才能を示している。他の水彩・素描も豊かな才能の片鱗が見られる。埋もれるには惜しいと思うので、ここで紹介したのである。遺された作品の数が非常に少ないことに加えて、大正時代の作品を新たに見つけ出すことも容易ではないだろう。しかし、今後は小樽ゆかりの重要な画家として復権させていきたいものである。
新明英仁
二十五年ほど前のことになるが、自宅を新築したとき、庭づくりで高さ2mほどのキハダの木を植えてもらった。落葉高木、ミカン科の樹木である。2~3年後、その木はほとんど枯れて、葉が出ているのは30cmほどの枝1本となった。何とか生きてもらいたいと思い、私なりに努力して強壮剤のような薬や肥料をまいてみたところ、徐々に回復して、その枝が伸び、枯れた幹よりも太く大きくなっていった。現在では高さが4mほどになり、剪定はしているものの青々と茂っている。
何を隠そう、この木は北海道ではアゲハチョウ科の主たる食草で、美しい揚羽蝶(ナミアゲハ)が次から次へと庭へやってきて、卵を生んだ。このナミアゲハという蝶は、本州ではたくさんいる。「ナミ」という名がついているくらい「並み」の蝶だ。しかし、北海道ではあまり見かけない。山へ行っても数多く見るのはこれに似たキアゲハだけである(キアゲハの食草はセリ科の植物)。その蝶が住宅街の我が家の庭にやってくる気分は悪くない。この木を植えたそもそもの目標がそれだったからである。初夏になると、大きな緑色の幼虫が葉についている。といっても木を枯らすほどたくさんいるわけでもない。庭には、多種の昆虫が好むミズナラやノリウツギも植えてある。虫好きの私としては大変幸せである。
昆虫は一塊の土くれや木屑、糞や小さな水溜りからも多数発生する。未発見を含め150万~200万種とも言われる昆虫の生態は非常に多様である。陸上のあらゆる環境に適応しているといってよい。『虫の惑星』(米の昆虫学者ハワード・エンサイン・エヴァンズ著)という名著があるが、人間中心から自然中心へ見方を変えるなら、なるほど地球は虫の星でもある。推計によれば、400㎡ほどの牧草地に1兆(!)の虫(節足動物を含む)がいるというのだから。
一方、われわれヒトは数千種の哺乳類の中の1種に過ぎない。しかし、実に多様なヒトがいる。その多様性も面白い。私のように虫好きなヒトも百人に一人くらいはいるだろう。美術のファンはどうか。それなりにいると思う。美術に関する職業、画家、彫刻家、デザイナー、教員、研究職、学芸員・・・・などに携わっているヒトはどうか。これも相当な数になる。しかしながら、その専門性や趣味の傾向によって、美術の中でもかなりの多様性がある。美術関係者としてひとまとめにされそうだが、実は個別に異なるのである。
ここから少しまじめな話。多様であるということは、ある人の考え方に全く関心がなく、接点がないという人も相当数いるということである。最近気になるのは、誰にでも役立つことや経済的に潤うことが優先されるという実利主義的、成果主義的な社会の傾向であり、それが多数派のように見えることである。むろん芸術文化などは蚊帳の外である。
役立つというと聞こえは良い。それは生きていくために大切なことではある。だが、そのような技術や施策は、多くの場合、悪用、誤用、事故、濫用の可能性もあるものである。我々は普段からそのような事例を嫌というほど見ている。歴史をさかのぼれば、その事例は膨大である。単純に「役立った」「成果が上がった」と考えるのは危険なのである。それは当面の結果だけを、数字的・統計的もしくは恣意的に見ているということであると思う。
人について考えるとき、文化の存在を無視することは出来ない。それが果てしなく実利を追求する欲望の抑止力となり、長い目で見て本当に役立つものを育てるのではないだろうか。これは技術や施策を用いる人たちの人格の良し悪しの問題では済まない。過去現在未来について深く考える想像力や洞察力が必要であり、それを育てるのは文化の大きな役割である。むろん、美術もその一分野であり、たとえば絵画的な思考方法は、人という知性的動物が文字を持つ遥か以前から育んできた多様な文化の根幹の一つである。仮に美術を愛する人が少数派であるとしても、それが社会に果たす役割は大きい。美術を含め、文化は多数決の世界ではない。多様性こそが大切である。そこには、少数の中に優れた価値あるものを見出し長い目で発展させていく力が潜んでいると思う。
ああ、また肩に力が入った。これでおしまい。
新明英仁
私は旭川の旧国鉄の官舎で育ったので、家の裏は少し行くと線路の土手だった。旭川駅に近かったので、線路は幾重にも分岐して広がっていた。
数十両編成の貨物列車が自宅の窓からすぐそこに見えた。何両編成か数えて楽しんだ記憶がある。むろん、汽車の通る音には慣れていて、騒音とは思わなかった。夜も眠ることができた。今でも電車に乗ればその音は眠りを誘う。
小学校時代、私は時々その線路の向こうに流れる忠別川まで遊びに行った。現在のように猛烈な速度で走る電車もなく、蒸気機関車はゆっくりと走っていた。周囲は駅の近くであるにもかかわらず、自然の宝庫だった。雑木林も河畔林もあった。小さな水溜りに小型のゲンゴロウが泳いでいた。朝、官舎の壁に大きなクワガタムシがとまっていた。美しいアカネトンボ(ミヤマアカネ)が飛んでいた。昆虫の採集に親しみ、穴が開くほど図鑑を睨んで種類を調べた。今でもその趣味が続いているのは、この体験から得たものである。
小学校高学年になって、それが変わった。函館本線の電化複線工事である。当時のことであるから自然を守ろうという意識は少なかったようである。忠別川は改修され掘り起こされ、河畔林はなくなった。身近だった自然が遠ざかった。それから半世紀後の現在の旭川駅裏は、緑化され、樹木が植えられ、自然を取り戻しつつあるが、それは何か、過去の償いであるかのように私には思われる。
さて、母の実家が札幌の石山だったこともあって、毎年のように家族に連れられて汽車に乗り、遊びに行った。その実家のそばを定山渓鉄道が走り、窓から山際を走る電車が見えた。現在は住宅街だが、当時は一面の田んぼで、たくさんの蛙を採って遊んだ。祖父母に連れられて汽車に乗ったこともあるが、札幌駅の手前の苗穂駅が広くて大きいので、札幌に着いたと勘違いしたことがあった。
それだから、子供の頃、古い札幌駅舎には何度も降り立った。その後は都市化・商業化され、今はその懐かしい景色のかけらも残っていない。現在開催中の大月源二展(~7/2)には、「春雪の札幌駅構内」(1966 個人蔵・当館寄託)という私が親しんだ50年前頃の札幌駅の様子を髣髴とさせる油彩画が出品されている。雪と汽車とホームと街並み。雪国の生活感が滲み出た佳品だ。
日本では、汽車や電車を取り込んだ絵画作品で一般に知られたものは少ない。あえてあげるなら池袋モンパルナスにもゆかりのある長谷川利行の作品であろう(鉄道博物館蔵・さいたま市)。一方、海外ならターナー「雨・蒸気・スピード-グレート・ウェスタン鉄道」、モネ「サン・ラザール駅」やデルヴォーのいくつかの作品が良く知られていてすぐに思い浮かぶ。ともかく鉄道にはそれなりに深い思い出のある私が石炭・海産物輸送の動脈であった旧手宮線横の美術館にJRで通勤するようになったのは、何かの縁であろうか。
とすれば、ひとつの夢として北海道と小樽市の鉄道にかかわる美術の展覧会を考えてみるのも悪くはなかろう。本州ではすでにいくつかの企画展が開催されているようだが、北国の特色を反映した内容の展覧会企画である。小樽市総合博物館では蒸気機関車に体験乗車することができるし、鉄道関係の常設展示が多数ある。視野を広げると文学にも面白い作品はたくさんあり、絵本にも鉄道は多く描かれている。博物館や文学館・図書館と連携することもできそうだ。問題は上記の大月源二のような北海道ならではの良い作品(絵画・写真・デザインなど)が現実に集まるのかどうか?これは手宮線を散歩しながら考えた夢のような話だが、展覧会はそれから始まることもあるから面白いのである。
新明 英仁
私は数十年来のクラシック音楽ファンである。私の育った旭川で演奏会が開かれるのは珍しかったから、少年時代はLPレコードを聴いていた。またFM放送も良く聴いていた。昭和40年代当時2,000円のレコードを買うと毎月の小遣いはなくなった。それでも小遣いは友人の中では多いほうだった。安価な装置で高価なLP一枚を何十回も繰り返して聴いていた。
ところがやがてCDの時代がやってくる。デジタル?・・・そんな意味のワカラナイものは聴くものかと思っていたが、時代の流れに呑まれ、CDを買い揃えるようになった。小遣いの過半はそれに費やした。何とか再生装置もそろえた。集めたLPを半分くらい売った。しかし、何かの本にはLPのほうが音は良いと書いてあったと記憶する。全盛のCD業界に遠慮して片隅にちょっとである。
そして最近、再びLPが見直されてきた。それまでCDの再生装置は安物を故障するまで使っていたが、一念発起して総入れ替えし、さらにアナロク(LP)プレーヤーや真空管アンプを買い足した。50代にしてオーディオという、未知の世界へ足を踏み入れることになった。
聴いてきたCDをすべて聴きなおしたいと思うほど、音が良くなった。低音の弦楽器やティンパニの音が底から鳴り響く。そして、古いLPを聴いてみてさらに驚く。楽器の音が優美である。解像度が高くなりオーケストラのすべての楽器の音が聞こえてくるようだ。多数のLPを売ってしまったことを少し後悔した。
ところで、音楽の場合、音の世界だからCDでもLPでも本物、もしくはそれに近い世界である。むろん、実演にはかなわないが、実演は日時と場所とプログラムに選択の余地があまりない。CDやLP再生の場合は自宅で自分の気に入った曲目・演奏を良い録音で繰り返し聴けるわけである。
だが、美術の場合はそうは行かない。実物との出会いはほとんどの場合、一期一会である。
画集や作品集は、教育・教養のためや鑑賞の記憶を呼び戻すのには大変有効だが、実物ではない。それでも絵画や版画ならば印刷物の平面に納まるが、彫刻などの立体となると印刷物では絶望的である(印刷技術と写真家の腕次第でかなり良いものは作れるのだが、それはそれで長くなるのでここでは書かない)。
一期一会といえば、最初のそれは新米学芸員の研修を兼ねたフランス旅行でやって来た。30年以上前である。
言わずと知れたルーブルである。これは何と言っても王道である。
盛期ルネサンスの部屋に入ったとき、芸術の神様が降りてきた。巨匠たちの絵画の恐るべき重みと輝き・・・感じたものは、永遠の時間、何時間そこにいても飽くことのない美の世界・・・私はそれに完全に打ちのめされた。
美術館の学芸員をしていながら出不精であった私は、初めて実物を鑑賞することの本当の意味を体感したのである。何と遅い体験だったことだろう。私の育った当時は北海道に美術館などほとんどなかったから、訪問する機会も習慣も持たずに画集をながめていたのであった。
その後、何度かこのような体験をした。感動した対象は古今東西絵画彫刻工芸いろいろあるが、比較的まれな出来事ではあった。仕事の合間を縫って美術館や画廊に見に行く時間などほとんど取れない。通常の仕事では自分の勤務している美術館の所蔵品か特別展の出品作を除くと、印刷物の図版を参考にすることのほうが圧倒的に多い。期待すると実物を見てがっかりすることもある。だが、なるべく多数の作品を見る努力は必要だ。
いずれにしても、研究や展覧会、作品の収集のためには、ほぼすべての関連作品を事前に実際に見て調査する必要があり、そのための調査に時間とお金がかかるのである。この場合、作品の品定めをすることができる「眼」が何よりも重要となる。苦労して時間をかけて調査し、研究し、展覧会を企画実現したとき、それらの作品は自分の人生にとってもかけがえのない一期一会の記憶となって残るのである。
何となく、趣味から仕事の話になって肩に力が入ったようである。今回はこれにて。
新明 英仁
「潮祭り」が終わってしばらく経つが、今年、新米館長として団扇絵コンテストの審査委員長を仰せつかり、表彰式と講評にも参加した。来年の潮祭りの団扇デザインを決める大事なコンテストである。市内の中学1年生の作品がグランプリに輝いた。出かけると、会場は祭り一色で、多数の観光客も加わり、大混雑。仕事を終えてから夕方の表彰式に出席した私は、周囲の人々の浴衣姿、法被姿の中で、一人背広の上着を着ている有様で、大変浮いた存在だった。こりゃあ来年は、せめて団扇くらいは持っていくようにしよう。
ところで、祭りといえば、懐かしい思い出がある。
もう40年ほど前の学生時代の夏、ゼミの合宿のあと、友人たちと一緒に仙台から青森まで行ったことがある。青函トンネルも東北新幹線もない頃である。青森駅に着いたのは8月初旬、ねぶた祭りの始まる日の午後であった。晴れた日でかなり暑い。それとともに、なんとなくモウモウとしたお祭前の気分が町を包みこんでいる。青森の街中に住む友人の家へ寄せてもらってわれわれは少し仮眠した。友人たちは祭りで跳ねて(踊って)いくという。しかし私は、夕方の青函連絡船に乗って北海道へ帰らなくてはならない。
すると女友達の一人が、私を連絡船乗り場まで送ろうと言ってくれた。
町に出ると夕刻が迫り、本通の脇筋にはこれから繰り出すねぶたが準備されている。刻々と祭りの本番が迫りつつある。その友人は、私と一緒に連絡船に乗りこんでしまうのではないかと思うほど、船の近くまで会話しながら送ってくれた。そして陽が大きく傾く。彼女は私の恋人でもなんでもないのだが、後ろ髪を引かれるような気分で別れを告げて連絡船に乗り込んだ。
その直前に夕日が沈んだ。
ただ、これだけの思い出である。私を送った女性がその何年か後に心臓の病気で若い命を落としたこともあり、このありきたりな出来事がねぶたの濃厚な熱気と重なって繰り返し繰り返し思い出される。この友人たちに今再び会えたら、どんなにうれしいことだろう。その時その場所に戻ることができたならば、惜しむものなど何もない。
祭りは本番のときも良いが、始まる前の期待感、そして終わった後の余韻も良い。当館の「まつり写真展」(9月18日まで開催)を見ながら、そう思った。
新明 英仁