市立小樽美術館 市立小樽美術館協力会

KANCHOの部屋

禍中閑話(2)耳も節穴 目も節穴

 私の場合、仕事でも趣味でも、芸術文化に対していろいろなものに目や耳を研ぎ澄ませてきたつもりだが、あくまでもそれは「つもり」であって、見落とし、聴き落とし、読み落としが膨大な数になっていると感じている。過去の芸術作品は膨大で物量的に太刀打ちできない。それをカバーしようとしても、ただ数を「こなす」だけでは魅力に気づくこともむずかしい。鑑賞の質が大切なのである。年を取って、以前よりは少し精神的余裕と冷静さを持つようになると(これは自己診断なので心もとないが)、若いころから多数の関心を持つべきもの、感動すべきものを見落としてきたことに気づくようになった。まあ、これは鼬ごっこで、もっと年を取れば、現在も見逃しているものに気づくのだろう。

 仕事で疲れきって展覧会を見ても、作品に対して能動的な反応をすることは難しい。眠いのに本を読もうとするのと同じである。音楽だけはBGMのようにしておくこともできなくはないが、やはり疲れていれば脳は反応しない。心身ともに元気という状態は若い頃から持続せず、幻想と妄想と眠気にとらわれて注意力散漫な状態が続いた。学校生活や社会生活そして恋愛はとても大変で疲れるのである。と言っても、複雑な現代社会であれば誰しも同じなので弁解の余地はない。やはり、私の脳みそに大きな節穴があったのだ。

 節穴が良いこともある。霧のようにかすんでよく見えなかったもの、疲れて余裕がなく感じ取ることができなかったものが、大げさに言えば突然、啓示のように焦点が合ってはっきり見える、ということがたまにあるからである。この時の新鮮な感動は他人には語りつくせないものがある。知らないこと、気づいていないことが多ければ多いほど、この感動の確率は上がる(?)かもしれない。そして、まだ自分が成長していると錯覚し、自己満足できる。

 最近頭の中で焦点が合った体験と言えば、少し前にこの欄でも書いたが(6 埋もれた画家)、小樽ゆかりの船樹忠三郎という無名の作家である。自分の勤める美術館で、その小さな作品のみせる才能のきらめきに突如として焦点が合ったのだ。惜しむらくは、中途で画業を断念しなくてはならぬ事情があったことと、現存作品がきわめて少ないことだ。

もうひとつは諏訪湖旅行で訪ねた茅野市尖石縄文考古館の「縄文のヴィーナス」(土偶)である。同館には「仮面の女神」(土偶)もあり、どちらも国宝である。「縄文のヴィーナス」は図版では知っていたが、寸法(高さ27cm)以上に大きくたくましく感じられる妊婦の像である。前から見ても横から見ても面白い。この豊かな量感表現はどんな彫刻家にも真似できないような原初的な力がある。

そして裏側に回って驚いた。普通、ウラは図版では見られない。

頭にかぶっている帽子らしきものの上部がスパッと平たく切り取られたような形で、そこに大きく渦巻き型の模様がはっきりと形作られている。これは当時の帽子のリアルな描写なのか、それとも妊婦や出産を象徴する記号なのかよくわからない。勝手に解釈すると、これは出産間近の妊婦をあらわす記号ではないかとも思う。というのはこの渦巻き、グルグル模様は他の妊婦を扱った土偶でも、もっとあいまいな形ではあるが見られるからである。とすれば我々は時を隔てて、記号の誕生の時代に立ち会っているのである。ともかくも、この諏訪湖周辺は縄文遺跡の宝庫で、まだ面白いものが見つかるのではないかと期待してしまうところである。

 さて、専門の話は書けば書くほど、余計なことを知っている弊害が出て、ややこしくなるので、気楽に趣味の音楽と文学の話にしようと思ったが、これはこれで長くなるので次回以降にとっておこうと思う。

なにはともあれ、これからも長く「節穴」だらけの人生を楽しみたいものである。

新明 英仁

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