学生時代
もはや40年以上前のことになるが、私は念願かなって仙台市の土を踏んだ。東北大学の文学部に一浪で入学したのである。親元の旭川から離れて遠く仙台の一人暮らしの毎日は夢のように楽しかった。勉強は全くしなかったが、大いに遊んで青春を謳歌した。結果的に一年留年して卒業したけれども、どうして卒業できたかは未だに謎である。
現在の大学生は勉学に就職活動に、いろいろと忙しいようだ。大学に集中講義などで出向くと少しはその様子がわかる。出席率極めて良好。そして、自分の学生時代と比較して気の毒になる。世の中が以前よりシステム化してしまっているのだ。枠に嵌められると抜け出すのが難しい。勉学や就職でいろいろ努力することが求められても、若者なら反発する気持ちも起きるだろう。もっと伸び伸びと育てたほうが後年になって良い効果が現れるのではないか。
さて、自ら選んだ文学部に入って驚いたのは、文学部が実にさまざまな人間の集まりであったということである。文学といえば、国文学か英文学か、詩人・小説家か文芸評論家かという世界であるように思っていた私は、「文学部」の具体的内容に驚いた。つまり、その時点では頭の片隅にもなかった美学・美術史をはじめとして、哲学、心理学、社会学、考古学、歴史学、民族学、言語学などの専攻を幅広く包含するものであった。これは受験生の常識に近いことであるはずなのだが、それさえも知らないで入学した田舎の小僧であったわけである。さらに受験は終わったのに大変真面目に勉強する学生が多いのに驚いた。語呂合わせにもならないが、「ブンガク」とは、「バンカラ」なものである、という私の考え方は、多彩な友人たちとの交流によって、少しずつ変わっていった。つまり、世間の広さを知っただけ少しはマシな人間になったということである。
とはいえ生活ぶりはといえば、1年生の最初の学期だけは少し勉強したが、それ以後はマージャンにのめりこみ昼夜逆転の放漫さであった。一方でギリギリの線で単位を落とさない術も身についた。出欠を気にしない先生の講義を多く取り、試験勉強だけはそれなりにして単位を取るという、オーソドックスだが、おそらく今は通じない手法である。私の友人といえば類は友を呼ぶ状態で、反骨型、はみ出し型の不勉強な仲間が多数出来た。後日、どういう訳か、彼らの多くが大企業や自治体の研究職員(大学教員や学芸員を含む)として、しっかり就職したのは不思議なことである。卒業当時(1980年頃)は、文学部などはお呼びではないといわれるほど就職難の時代だったからである。
ところで、大学の教養部の講義は、たまに出席しても退屈なものが多かった。講義の多くは大教室である。教壇で頭を掻きむしりながら外国語の文献をその場で翻訳して延々と読み上げる先生、自分の原稿を時間いっぱいにゆっくり読んで学生に筆写させる先生、講義の半分は自分の留学時の四方山話という先生、黒板に向かってブツブツと小声で何も聞こえない先生など個性的ではあったが・・・大体そんなものであり、のんびりとしていた。実際には、味のある教官の方々であったのだろうと思うし、そこには現在は失われた大学教育の寛容さが隠されていたのではないかと思われる。
私の生活は、入学して2年後に専攻することになった東洋日本美術史の研究室に入ってからも、大同小異であった。しかし、たまにしか顔を出さない研究室で、講義では見せない、担当の先生の鋭い見識に何度も接することが出来たのは幸いであった。物静かな先生であったが、私へのご叱声も含め、今でも心に残っているお言葉がいくつかある。私のような不肖の輩がここでお名前を挙げるのも畏れ多いが、伊藤若冲など奇想の画家を研究し世に送り出したことで知られる日本美術史の辻惟雄(つじのぶお)先生である。美術史の研究に関する先生のお言葉は、美術館の学芸員となって以後、30代、40代と年を重ねるにつれ、じわじわと効いてくる含蓄に富んだものであった。これこそ真の意味での大学教育だったのではないかと思う。
新明 英仁