市立小樽美術館 市立小樽美術館協力会

KANCHOの部屋

奄美(南西諸島)と自然

 夏が来ると、いつも思い出すのが奄美旅行のことである。最初の旅行は20年ほど前になる。そして南西諸島への旅行が病みつきとなり、奄美大島に4回、徳之島に3回、石垣島に2回と立て続けに旅行した。目的は言うまでもなく昆虫の採集である。その成果は年によってまちまちだが、平均的に見てまあまあであるとは言えるだろう。

 むろんここで書くのは虫採り学芸員の自慢話ではない。それらの島々の美しさについてであり、その次に絵の話である。

最初の奄美旅行で名瀬空港に着陸する前に見た青緑に輝く海の色、それは、今でも自分の記憶の中で最も美しいものとして記憶に残っている。そして車の窓から見た白い海岸線と山と海が織り成す夕景もそうである。最初に宿泊した奄美の民宿(当時の住用村和瀬地区)は、海沿いの小さな湾の小さな集落にあり、商店は1件しかなかったが、青く美しい珊瑚礁が目の前にあった。民宿の人がそこから漁をした魚が毎日のように食卓をにぎわした。

朝、早起きして民宿の前の道に出ると、未明の薄暗い光の中、海の方角から多数の大きな蝶が飛んでくる。道端のハイビスカスの花に集まるものもあれば、内陸へ向かうものもある。その蝶の中には、熱帯低気圧に乗ってはるか南方から海を渡ってきたと思われるものもいた。「海洋を渡る蝶」といえば、画家三岸好太郎(みぎし・こうたろう 札幌市生 油彩画 1903~1934)の絵が知られているが、例えば谷文晁にも群蝶が海を渡る図があったので探せばいくつかありそうである。三岸の絵は、すばらしい作品だが、飛んでいる蝶(蛾も含む)からみて想像の産物である。私が見たのは、その現実版であるが、幻想的で今でも夢見るように思い出すことがある。また、徳之島には沖合いで戦艦大和が沈没したため、海沿いにその慰霊碑があるのだが、その海岸線の長く白く美しいこと、まばゆくて正視できないほどであった。

この奄美大島と徳之島には猛毒のハブが棲んでいることはご存知と思う。何人か知り合った民宿の素敵な「おばさん」を含め、現地の人でハブの恐ろしさを語る人は多いのだが、自然の中で実際に見たことのある人は少ないようだった。私は、夜間に林道に入ることもあるので、不意に出くわさぬよう常に気をつけていた。そしてかなり大きいものも含めて何匹か見かけた。彼らは自衛のために人を襲うのであって、必要以上に近づかなければ何事も起こらない。むしろ音を立てて近づけば逃げていく。奄美や徳之島の人々は、山林を避けて自然に遠慮するように海沿いに集落を作って生活している。これも自然との不要な衝突を避けるためだったという話をどこかで聞いたことがある。

余計なことに話が飛んだが、奄美の画家といえば近年再評価が進んだ田中一村(たなか・いっそん 日本画 1908~1977)がいる。現在奄美大島には彼を記念した美術館があるが、それが出来る以前の1995年、道立旭川美術館で学芸課長をしていたとき「田中一村展」の巡回展会場に加えてもらう機会に恵まれた。画壇を遠く離れて奄美で本格的に才能を開花させたこの画家については多くの人が語っている。私がその作品に関心を持ったのは、彼の作品が花鳥画中心であり、その中にイシガケチョウ、ツマベニチョウなど南日本(西日本)にしか生息しない魅力的な蝶が描かれていたからでもあったが、それ以上に、生命のかたちを色彩鮮やかに浮かび上がらせる南西諸島特有の自然、光、空気の力が、一種の活力と熱気をもって画面に封じこめられていたからではないかと思う。

このような作品を描くのは、旅行や短期滞在では到底不可能である。そこの住人となって生活し自然に入り込む必要がある。というより、これこそ画家のあるべき姿なのでないか・・・便利な大都会に住んで器用に描き名前が少しは知られたとしても、本当にいい作品が描けるのだろうか・・・という絵画の本質に関わる問題にもつながるだろう。ある土地に長く住んで特有の風土を余すところなく描いた作家を私は何人か知るが、彼らの作品では、流行も虚飾も抑制され、描く対象に対する没入の中から個性的表現が深く滲み出てくるようになる。したがって毎年見る四季の自然の美しさと同様に見飽きることがないのである。

新明 英仁

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