木版画の話
最初にご挨拶申し上げます。この4月から館長をつとめることになりました新明英仁(しんみょう ひでひと)と申します。道立近代美術館、道立旭川美術館、道立文学館で36年間にわたり、学芸員として日本の近現代美術の研究や作品の収集、展覧会の企画などの仕事をしてまいりました。どうぞよろしくお願いいたします。
今後、この欄では、さまざまな芸術文化に関する話題を取り上げていきたいと思っております。
今回は、当館で開催中の「木版の夢」展(7月3日まで)に関連して、木版画の話です。
誰もが小中学校時代に学ぶ技法ですが、この歴史は日本でも相当古い時代にさかのぼります。中国から伝来した当初は、経文(お経)を摺った文字だけのものであったようです。絵としては、さまざまな仏様の姿を摺った「摺仏」(すりぼとけ)が平安時代には作られていました。版木に紙を当てて摺る単純な白黒の木版です。これは仏像の内部に納めたり、社寺の門前で信者に売られたりしたものです。たくさん仏様の姿をつくればそれだけ功徳(くどく)も積めるということもあって流行します。もっと簡単に木版をハンコのように使う「印仏」(いんぶつ)というのもありました。やがて木版の上に美しく手彩色した仏様の画像も作られるようになりました。
江戸時代に入って、庶民階級が台頭してくると、木版は大きく変化していきます。
家庭や寺子屋での教育のために使われた「庭訓往来」(ていきんおうらい)や初期の物語本には絵入りのものが多数ありました。これは、つまり現代でいうところの「印刷」に当たるものです。しかし、浮世絵が登場すると、木版の芸術的な価値は一挙に高まります。鈴木春信に始まる多色摺木版画(錦絵 にしきえ)の発展により、版元(出版者 シリーズものなどの出版を企画する)、絵師(画家 下絵を描く、色指定する)、彫師(ほりし 版木を彫る)、摺師(すりし 和紙に摺る)の分業によって大衆のための浮世絵が大量に生み出されました。また、江戸時代後期には、大衆の読み物である黄表紙(きびょうし)、合巻(ごうかん)、読本(よみほん)も普及し、その挿絵は葛飾北斎や歌川国貞など一流の浮世絵師たちによる創意に富んだものとなったのでした。これらの木版画は、当時の大衆にとっては、現在の写真集や雑誌、大衆小説のような印刷物でしたが、現在の私たちから見れば、芸術性豊かな美術品といえるものです。
この浮世絵の伝統は幕末から明治に入っても続きました。しかし、明治末期になって、浮世絵のような分業による量産ではなく、自らの芸術的創作意欲にのっとって、自分で下絵を描き、自分で版木を彫って、自分で摺る、というように、すべて一人で木版画を制作する「創作版画」の試みが盛んになり、現在ではそれが銅版画など他の技法も含む「版画」と呼ばれる美術のジャンルに含まれたものとなっています。当然のことながら、数多くのすぐれた作家たちによって木版画ならではの表現や技法の研究も進み、多彩な表現が生み出されてきました。
さて、そこで登場するのが今回の展覧会にも出品されている棟方志功(むなかたしこう 1903~1975)です。小樽の版画家たちに大きな影響を与えています。彼は、戦後に数々の国際展で受賞し、日本の木版画のすばらしさを世界に広めた国際的作家になりましたが、昭和4年に初めて小樽に来たときはまだ20代の若さでした。招いたのは美術教師の成田玉泉(なりたぎょくせん)で、当時小樽在住の斎藤清や未だ中学生だった河野薫(かわのかおる)、金子誠治に棟方を紹介しました。斎藤清は棟方と交流を深め、昭和13年には金子誠治らとともに小樽創作版画協会を創立しました。河野薫も棟方の激励を受け、木版画の道を歩みました。
今回の展覧会では、これら5人の小樽ゆかりの木版画家を紹介しています。ご覧いただければ、各作家の個性と木版画の表現の面白さに必ずや惹かれることでしょう。
最後に、木版画の魅力とは何でしょうか?棟方志功はそれについてさまざまなことを著書で述べていますが、その中で、仏教の感化を受けて自分は「他力」で作品の制作を行うと語っています。この「他力」という言葉は「偶然のなせるもの」「意図しないでできるもの」などと置き換えてもいいでしょう。つまり、下絵を裏返して板に貼り、彫刻刀で彫り、絵の具を塗って摺るという間接的な作業を重ねることにより、下絵をはみ出したり、単純化されたり、木目が出たり、摺りの濃淡やかすれが出たり、思いがけない表現が作品に生み出されるということです。むろん、その効果を予測し、応用することもできるでしょう。それでも偶然は起きます。その繰り返しによって、作品の世界が広がり、味わいと深みが出るということなのです。この長い歴史と奥深い味わいを持つ木版画について、ぜひ多くの方々に関心を寄せていただければと思います。
新明 英仁