埋もれた画家
美術館の学芸員にとって、仕事の醍醐味といえるもののひとつに、埋もれた画家の再発見がある。むろん、西洋の名画や国宝級の美術品を展示紹介することも面白いが、誰も注目していない優れた作家を調べて世に送り出すことはそれにまさる楽しみがある。
つまり、当の学芸員だけがその魅力を知っていて、調べるうちに誰よりも詳しくなるという、マニアックな楽しみが味わえるわけである。
そう、世の中に知られていないのだから、調べた人が最も詳しいのは当たり前である。
しかし、普段から広くアンテナを張っていないと、そのような作家にめぐり合うことは困難である。仮に目に触れても作品の良さに気づかなければおしまいである。ともかく、そのような作家を見出すには、詳細な調査、経験と勘と情熱、それに良い作品を見る眼が重要だ。そして論文や展覧会で世に送り出すときは、自信と不安が相半ばする。学芸員としては、自分の眼が節穴ではないことを信じるしかない。
特に地方の都市などで活動している作家の中には、あまりにも身近な存在であるために、地元の人がかえってその才能に気づかないということもあるだろう。美術館学芸員が関わることによって再発見された代表的な北海道ゆかりの作家として、神田日勝(鹿追町)や深井克己(函館市)の例がある(以下カッコ内は主なゆかりの地)。これは北海道立近代美術館の学芸員の努力によるところが大きい。小樽市ゆかりの版画家一原有徳の異才も、神奈川県立近代美術館の館長をつとめた土方定一氏の積極的紹介によって全国的に知られるようになったことは、関係者の間で良く知られている。高坂和子(根室市)、佐藤進(旭川市)なども、美術館での積極的な紹介によって、ローカルな存在ではなくなった例である。
むろん、埋もれた作家の再発見は、いわゆる新発見報道とは異質のものである。既に作品は発表されているので、未知の動植物や化石ではない。何らかの理由で忘れられていたのである。その作家を見出したことに瞞着せず、調査を重ね、その作家の持つ真実の魅力を展覧会と論文で引き出し、広く再認識してもらうことが重要となる。
さて、以前からずっと気になっている秋田義一(旭川生まれ、生年不詳~1933没)という夭折の画家がいる。遺族は所在不明である。旭川の初期の画会を調べているときにその名は登場し、面白そうな作家だと思ったが、実際の作品を見る機会に恵まれなかった。上京して近代洋画の巨匠である萬鉄五郎主宰の円鳥会に所属したことがわかるし、二科会にも出品している。旭川で五人展(萬鉄五郎を含む)や個展を開催し、旭川新聞記者だった若き小熊秀雄がその展評を書いた。また、詩人の金子光晴・森美千代夫妻と上海で放浪生活をしていたことも金子の著書『どくろ杯』で詳細に述べられている。さらに、『芸術新潮』連載の「気まぐれ美術館」で洲之内徹氏が二回にわたって言及し、作品のカラー図版を掲載した。私は、旭川の美術を一冊の本にまとめる仕事を依頼されていたので、何とか執筆前にその作品を見たいと思い、所有しているという信州の某ホテルに電話を入れたところ、調べてくれたものの、該当作品は見つからないとのことであった。他のことにかまけているうちに年月が過ぎ、作品は所在不明となり、恥ずかしながら実物を調査する機会を逸したのである。探索はもはや「迷宮入り」かもしれない。
ところで、小樽にも埋もれた画家はいるだろうと思っていたら、船樹忠三郎(舟木忠三郎とも表記される、1891頃生~1951没)という気になる画家に出会った。現在、当館の一階で5点の作品が展示されている(2018年3月4日まで)。その名前は辛うじて知っていたが、作品を見るのは初めてである。今のところ大正13(1924)年以後は画家としての活動記録がなく、事情によって家業に多忙であったらしい。従って画家として活動したのは20代から30代にかけての十数年間ほどとなる。大正初年頃から上京して大下藤次郎主催の日本水彩画研究所に学んでおり、日本の水彩画を代表する一人である小山周次と交際があった。初期の二科会(1914年設立)に入選し、その作品は雑誌『みずゑ』に掲載されている。また、小樽の羊蹄画会や緑人社を通して工藤三郎、平澤貞通、木田金次郎、高田紅果など地元ゆかりの画家や文学者とも交流があった。5点の展示作品はいずれも小品だが、唯一の油彩画「家々の連なる風景」を見ると、上記した萬鉄五郎や岸田劉生らが大正元(1912)年から翌年にかけて結成・活動し、日本の近代美術に重要な影響を与えたフューザン会の影響を受けているのではないかと思われる。横長の画面に低い視点から野原と民家の家並みを描いた作品だが、明らかに後期印象派風であるだけでなく、萬鉄五郎などからの直接的影響があるように感じられる。この作品に律動する生命感は、船樹の明らかな才能を示している。他の水彩・素描も豊かな才能の片鱗が見られる。埋もれるには惜しいと思うので、ここで紹介したのである。遺された作品の数が非常に少ないことに加えて、大正時代の作品を新たに見つけ出すことも容易ではないだろう。しかし、今後は小樽ゆかりの重要な画家として復権させていきたいものである。
新明英仁