市立小樽美術館 市立小樽美術館協力会

KANCHOの部屋

多様性

二十五年ほど前のことになるが、自宅を新築したとき、庭づくりで高さ2mほどのキハダの木を植えてもらった。落葉高木、ミカン科の樹木である。2~3年後、その木はほとんど枯れて、葉が出ているのは30cmほどの枝1本となった。何とか生きてもらいたいと思い、私なりに努力して強壮剤のような薬や肥料をまいてみたところ、徐々に回復して、その枝が伸び、枯れた幹よりも太く大きくなっていった。現在では高さが4mほどになり、剪定はしているものの青々と茂っている。
何を隠そう、この木は北海道ではアゲハチョウ科の主たる食草で、美しい揚羽蝶(ナミアゲハ)が次から次へと庭へやってきて、卵を生んだ。このナミアゲハという蝶は、本州ではたくさんいる。「ナミ」という名がついているくらい「並み」の蝶だ。しかし、北海道ではあまり見かけない。山へ行っても数多く見るのはこれに似たキアゲハだけである(キアゲハの食草はセリ科の植物)。その蝶が住宅街の我が家の庭にやってくる気分は悪くない。この木を植えたそもそもの目標がそれだったからである。初夏になると、大きな緑色の幼虫が葉についている。といっても木を枯らすほどたくさんいるわけでもない。庭には、多種の昆虫が好むミズナラやノリウツギも植えてある。虫好きの私としては大変幸せである。
昆虫は一塊の土くれや木屑、糞や小さな水溜りからも多数発生する。未発見を含め150万~200万種とも言われる昆虫の生態は非常に多様である。陸上のあらゆる環境に適応しているといってよい。『虫の惑星』(米の昆虫学者ハワード・エンサイン・エヴァンズ著)という名著があるが、人間中心から自然中心へ見方を変えるなら、なるほど地球は虫の星でもある。推計によれば、400㎡ほどの牧草地に1兆(!)の虫(節足動物を含む)がいるというのだから。
一方、われわれヒトは数千種の哺乳類の中の1種に過ぎない。しかし、実に多様なヒトがいる。その多様性も面白い。私のように虫好きなヒトも百人に一人くらいはいるだろう。美術のファンはどうか。それなりにいると思う。美術に関する職業、画家、彫刻家、デザイナー、教員、研究職、学芸員・・・・などに携わっているヒトはどうか。これも相当な数になる。しかしながら、その専門性や趣味の傾向によって、美術の中でもかなりの多様性がある。美術関係者としてひとまとめにされそうだが、実は個別に異なるのである。
ここから少しまじめな話。多様であるということは、ある人の考え方に全く関心がなく、接点がないという人も相当数いるということである。最近気になるのは、誰にでも役立つことや経済的に潤うことが優先されるという実利主義的、成果主義的な社会の傾向であり、それが多数派のように見えることである。むろん芸術文化などは蚊帳の外である。
役立つというと聞こえは良い。それは生きていくために大切なことではある。だが、そのような技術や施策は、多くの場合、悪用、誤用、事故、濫用の可能性もあるものである。我々は普段からそのような事例を嫌というほど見ている。歴史をさかのぼれば、その事例は膨大である。単純に「役立った」「成果が上がった」と考えるのは危険なのである。それは当面の結果だけを、数字的・統計的もしくは恣意的に見ているということであると思う。
人について考えるとき、文化の存在を無視することは出来ない。それが果てしなく実利を追求する欲望の抑止力となり、長い目で見て本当に役立つものを育てるのではないだろうか。これは技術や施策を用いる人たちの人格の良し悪しの問題では済まない。過去現在未来について深く考える想像力や洞察力が必要であり、それを育てるのは文化の大きな役割である。むろん、美術もその一分野であり、たとえば絵画的な思考方法は、人という知性的動物が文字を持つ遥か以前から育んできた多様な文化の根幹の一つである。仮に美術を愛する人が少数派であるとしても、それが社会に果たす役割は大きい。美術を含め、文化は多数決の世界ではない。多様性こそが大切である。そこには、少数の中に優れた価値あるものを見出し長い目で発展させていく力が潜んでいると思う。

ああ、また肩に力が入った。これでおしまい。

新明英仁

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